家族力―「いい親」が子どもをダメにする – ジョン ロズモンド (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 6 分


家族力―「いい親」が子どもをダメにする家族力―「いい親」が子どもをダメにする

序章 : バック・トゥ・ザ・フューチャー
第1章 : 子ども第一ではなく家族第一
第2章 : しつけに必要なのは、罰ではなくコミュニケーション。
第3章 : 子育てとは人を大切にする心を育てること。自尊心を育てることではない
第4章 : 大切なのは礼儀を教えること。技術を習得させることではない
第5章 : 大切なのは責任感を育てること。よい成績をとらせることではない

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書評・レビュー・感想

子供が親を尊敬しなくなる原因としてけじめがないことをあげ、けじめの大切さを説いている。
「しつけ」が効果をあげる前提条件として、著者は、「子供と親の間でけじめがあること」をあげている。

けじめは、権威を示し、それを誰かに伝えようとするときに欠かせないものです。
ボスが、権威を行使すべき相手と親しくなってしまうと、権威的に振舞えなくなります。
ボスと下の者とのあいだにけじめがあることによって、ボスへの敬意が生まれるのです。

この「けじめ」がないと、親は子供に指示ではなく、依頼をするようになるとも指摘している。

現代の親たちは、子どもが言うことを聞かないとしょっちゅう愚痴をこぼしています。
しかし、これはまったくの思い違いです。
稀に例外はあるものの、子どもというものは、大人に言いつけられたことはたいてい守るものなのです。
これは事実であって、子育ての理論なのではありません。
この子どもに関する真実と親たちの報告の食い違いは、どこからくるのでしょう?
それは、現代の親の大部分は子どもに指示を出していないという事実によって簡単に説明がつきます。
今の親は子どもに頼むのです。
さらには、子どもへの指示のつもりで発した言葉の最後に「いいね?」というもっともおろかでばかげた言葉をつけくわえることによって、頼んでいいか確認しようとしているのです。現代の親たちは、頼んだり、嘆願したり、駆け引きしたり、おだてたり、説得したりして子どもに何かをやらせようとしますが、ただ簡潔に命ずることはめったにしません。

少し前に流行ったスマップの「世界に一つだけの花」のスローガン「ナンバーワンよりオンリーワン」に違和感を感じていたが、その違和感を、ある経験をもとにしっかりと言葉にして表現してあった。
大いに頷くものである。

アラバマの幼稚園での講演の直前に、男子用トイレに入ったわたしの目は、手洗い場の壁に貼られた横長の紙にひきつけられました。そこには、きれいに色づけされた文字で、こう書かれていました。
君が今見ているのは、この広い世界にたった一人しかいない特別な人間だよ!
この特別な人間がわたしでないことは間違いなく、ということはこの幼稚園の園長や先生たちが、園児一人一人にそう信じさせたがっていることはよくわかります。
しかし問題は、このスローガンが真実ではないことなのです。
真実を言えば、この世に「特別な人間」などいません。
人間であれば、どんな人にもたくさんの欠点があり、悪い行いをしてしまうこともあります。
自己中心的な本性に屈服し、ひどい怒りやわがまま、嫉妬、欲望などを爆発させてしまうことはとても簡単なことです。
こうした悪魔の誘いに乗らないためには努力が必要です。
そして、良い子育ては、子どもがそういった努力をし続けることを可能にするのです。
何よりも、よい子育ては子どもに社会的責任感(人を大切にする心)をもたせ、そのために子どもは自分の自己中心的な衝動を抑制するようになるのです。子どもの自尊心は、両親が子どもに他人を大切にすることを教えた結果育つものです。親が子どもに、おまえは特別な存在だと伝えたから育つものではありません。

高すぎる自尊心は、著者がいうように「治癒すべき病気」だと思う。
高すぎる自尊心は、自己中心的な犯罪者の精神構造と同じで、「自尊心を傷つけること」を恐れることなく、力強いしつけを力強い愛と組み合わせて使う必要があると思う。
著者は、「礼儀」について、もっとも重要なしつけと捉えている。
子どもは「弱者」である。
その弱者は、まず自分を守らなければならない。
そして守る手段が「礼儀」である。
攻撃よりも防御という視点で「礼儀」はまっさきに備えるべきものだと思う。
礼儀を身につけ、「自分は弱い、しかしその弱さを自分は自分に許さない。」そう決意している人間だけしか、弱さから抜け出すことができない。弱さに安住している人間は、永遠に泣き続け、わめき続け、怒鳴り続け、恐れ続け、憎み続け、妬み続けるしか他ない。

若いということは非力であるということである。
私が小さな声で「私、それは違うと思うけど・・・」みたいなことをつぶやいても、誰も耳を傾けてくれないというのが「若い」という状況である。
若いということは、「この人は高い確率で正しい判断を下す人である」という安定した評価を獲得できないということである。だから、気の毒ではあるが、子供がどれほど正しいことをいってもまわりの大人はその主張にほとんど配慮しない。子供を蚊帳の外に置き去りにしたままものごとがどんどん決まっていく。それを指をくわえて眺めるしかないというのが、「若いということ」「子供であること」「非力であること」の悲しさである。それでも自分の主張の正しさを認めさせようと思ったらもう「怒る」しかない。
「怒る」以外に手段がないのである。
怒りのパワーによってとりあえず緊急避難的に与えられた一回だけの「聞き届けれられる」チャンスを確実にものにして「この若いの、なかなかいいこと言うじゃねえか」的にその判断の適さを承認されることによって、子供たちは一段階だけ「大人」になる。
その発言が適切であったことが結果的に確認されれば、次の機会には前ほどはげしく怒鳴らなくても、前ほど捨て身で他人の話に割り込まなくても人々はその人の発言を促し、その言葉に耳を傾けるようになるだろう。そのような小さな努力を積み重ねていく以外に「怒らなくても意見を聞いてもらえ」「怒らなくても立場を配慮され」「怒らなくても尊敬される」ポジションにわたしたちはたどり着くことができない。

と内田樹先生がいうように、礼儀を身につけ、弱さに安住しない強さを見につけれるように「しつけ」なければ、子どもは大人になれないと思う。

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