弾左衛門とその時代 – 塩見 鮮一郎 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 6 分

弾左衛門とその時代 (河出文庫)
塩見 鮮一郎
河出書房新社

弾左衛門制度は、江戸幕藩体制下、関八州の穢多身分を支配し、下級刑吏による治安維持、斃牛馬処理の運営を担った。明治維新を迎え、13代弾左衛門(弾内記=矢野直樹)は反差別の運動を起し、賎称廃止令によって被差別身分からは脱するが、同時に職業の特権的専制を失う。時代に翻弄されたその生涯を凝縮する。

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書評・レビュー・感想

先日、「被差別の食卓」という本を読み、いろいろと調べてみると江戸時代において日本の被差別民の頭領がいたということを初めて知った。その頭領の名前が「浅草弾左衛門」であり、江戸時代を通じて13代続いていると知り、この「浅草弾左衛門」について知りたいと思い、購入したのが本書である。まさに「浅草弾左衛門」を知るのにうってつけの本である。
結論から先に言えば、大変面白く、一読を強烈にお勧めする一冊である。
弾左衛門とは、個人の名前であり、制度の名前でもあるらしい。つまり名跡である。だから江戸時代には13代も浅草弾左衛門が続いている。本書は、最後の浅草弾左衛門である第13代弾左衛門の話に大きくページを割いている。

「弾左衛門」というのは職掌をあらわす名称で、武家身分の最下層にされていたが、ケガレ意識がつよまった時代に武士階級から切り離され、「賤民」の地位に置かれた。そのように考えれば、あちこちの城下に「弾左衛門」がいてもおかしくないので、そのうちのひとり、江戸にいた矢野氏が、家康によって「弾左衛門」に採用された。

この弾左衛門は、江戸幕府下における被差別民の頭領(穢多頭、長吏頭)であり、支配下にあったのが、長吏(穢多)、非人、乞胸、それに乞丐(乞食)たちであったとのことで、役目は、奉行の手伝いで、警備、牢番、処刑などのご用である。また、江戸の町奉行は被差別民の裁判と刑の執行を弾左衛門の役所に任せていたので、被差別民の裁判権もあったとのこと。
学校では、穢多非人というように習うが、穢多と非人は、別のもので、穢多が非人を支配していたようである。穢多は、髷の形や大きさなどにきびしい条件がついたが、丁髷を結うことができるが、非人は丁髷は許されず、散切り頭であったとのこと。本書を読むまで知らなかったことがいっぱいである。被差別民についてはタブー視されて教えられていないことが多いのだろうと思う。

非人は原則的には商いを禁じられて、もの乞いのみで生計を立てていくと考えられている。抱非人は、小屋主に抱えられていて、非人頭を頂点にする組に属しているのである。これら抱非人に対して、町人や百姓が落ちぶれて浮浪の徒になったのは野非人と呼ばれ、これは取り締まりの対象になった。罪を犯して非人にされた町人は、十年以内なら縁故者からの申請で「足洗い」ができた。

「足を洗う」という表現もここから来たらしい。現在残っている史料によると、明治元年時点での弾左衛門配下の非人は、浅草(車善七)の手下363軒(うち小屋頭111軒)、品川(松右衛門)の手下143軒(うち小屋頭42軒)、深川(佐助)と木下川(文次郎)の手下67軒(うち小屋頭22軒)、代々木(久兵衛)の手下37軒という数字が残っており、江戸府内だけでなく関八州とそのほかの土地の被差別民(穢多、猿飼、非人)をも支配していたとのことで、ものすごい人数を管理していたことがわかる。関八州では、各村に、被差別民の頭として「長吏小頭」がいて、代々世襲して配下を統轄し、その下に、穢多身分の「小組頭」とか「組下」(平之者)がついたようである。また、在地の非人は、江戸の非人頭ではなくて、この「長吏小頭」に支配されていたとのこと。
浅草の車善七や品川の松右衛門というのが、非人頭であり、映画「男はつらいよ」に出てくるテキ屋稼業の寅さん(車寅次郎)は、職業や苗字から浅草の車善七に繋がる一族の人間をモチーフにしていると考えられるだろう。(これも本書を読むまで気づかなかったが、年配の人は気づいていたのだろうか・・・)

弾左衛門は、しばしば非人頭と対立しながらも、彼らを配下に統轄する役目をはたしたと同時に、革口銭を徴収していた。ちなみに幕末の牛馬の革の口銭は、雄の牛皮は一枚につき銀四匁(一匁は六十分の一両)、雌は三匁。馬は二匁である。江戸の場合は、たぶん非人頭が集めて、年頭の挨拶に弾左衛門役所に出頭するときに上納した。このときにはまた、抱非人の人別帳を持参し、新たに「掟証文」に署名するのがならわしだった。

この「弾左衛門」という制度は、明治4年(1871年)の「解放令」によって終止符が打たれることになる。「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」という「解放令」が明治4年(1871年)に明治政府から出され、穢多非人等の称や身分の廃止などが断行された。当時、弾直樹(弾左衛門から改名)は「解放令」ののち、配下に、ここにいては差別されるから出て行くようにと口を酸っぱくしていったらしいが、実際に多くの人が出て行くまで100年以上はかかったらしい。弾直樹の長男・謙之助が明治42年(1909年)に屋敷地を小学校建設地として明け渡して、引越ししてしまったあとも、ずっといつづけた人が多いとのこと。

弾直樹は「解放令」によって「弾左衛門」ではなくなり、被差別民の頭領としての地位も失った。身分は4年まえより平民であったが、このとき、真に一市民になったことになる。ただ、弾直樹は、すでに製革製靴の会社を設立していたため、経営者としての地位は残った。つまり、資本制的支配の様式にいちはやく移行したため、トップの座は失わなかった。

その後、弾直樹(第13代弾左衛門)は、明治22年(1889年)まで生き、67歳で死去する。
本当に知らないことだらけの隠された日本の歴史だった。次は、浅草の非人頭だった車善七についての本を読んでみたいと思った。強烈にお勧めの一冊!
歌舞伎の「助六」が、市川團十郎 (2代目)が弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したもので、悪役の髭の意休は、第5代弾左衛門の集誓をモデルにしたらしい。知らなかった。。。
Wikipedia – 弾左衛門

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