逆ろうて候 – 岩井 三四二 (書評・レビュー・感想)

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逆ろうて候 (講談社文庫)
岩井 三四二
講談社

「信長に仕えるくらいなら、浪人したほうがましや」。美濃にその人ありと知られた武将・日根野弘就は「信長を討つ」という決意のもと、新たな主を求め東国に向かった。が、苦労して仕官した今川家での待遇は、美濃の五千貫文に対してわずか百貫文。弘就の波乱と忍耐の人生が始まった。

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書評・レビュー・感想

戦国時代の武将・日根野弘就の物語である。
Wikipedia – 日根野弘就

日根野 弘就(ひねの ひろなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃本田城主。
はじめ斎藤道三に仕え、子の斎藤義龍の代に重用され頭角を現す。永禄10年(1567年)8月には稲葉山城は織田家の手に落ち、大名としての斎藤家は滅んだ。これによって弘就も失領し、弟・盛就などと共に日根野一族は浪人となった。
斎藤家滅亡後、弘就ら日根野一族は遠江国の今川氏真に仕えた。しかし今川も徳川に敵わずに掛川城は降伏・開城し、日根野一族はまたしても浪人となった。
今川没落後は西上し近江へと向かい、浅井長政に仕えた。天正2年(1574年)9月29日の織田軍の総攻撃をもって長島の一向一揆は壊滅したが、日根野一族は長島を脱出し、しばらく後についに長年対抗し続けてきた信長の元に降った。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変時には在京して宿をとっていたが、本能寺や二条御所には駆けつけず状況を静観し、結局は羽柴秀吉に味方する。その後、秀吉の勘気を被り一時追放されたが、天正18年(1590年)に許され、再び仕えた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍西軍どちらに与すか表立っては明らかにせず、戦後に減封処分を受けている。

歴史的に有名ではない、歴史に埋もれた武将が、時代に翻弄される中で必死に生きる姿が描かれている。有名でないゆえに初めて知ることも多く、楽しんで読むことができた。
上昇していく織田信長と下降していく日根野弘就の対比がとても面白かった。
こういった挫折の連続の中で生き抜く姿は感動的ですらあった。良作!

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