オレ様化する子どもたち – 諏訪 哲二 (書評・レビュー・感想)

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書評・レビュー・感想

本書は、「オレ様化」というタイトルによって着目を浴びており、様々な媒体で引用されている。
引用回数が多いほど社会に影響を与えるという点で、実売数以上に影響力がある本ではあると思う。
かなり冷静な教育現場からの現状報告といっていいかと思う。
夜回り先生への指摘や村上龍の「13歳からのハローワーク」への批判など読みどころはたっぷりある。


著者は、本書の中で、

子どもが変わったということは、子どもが「共同体的な子ども」から「市民社会的な子ども」に変わったのだ

としているが、社会が共同的社会から市民社会的社会へと変わったために、最も影響がでやすい子どもにそれが顕著に現れたと考える方が自然であると私は思う。
本書ではさまざまな例をあげながら、共同体的な「贈与」の教育が成り立たなくなり、市民社会的な「商品交換」の教育になってきていると述べている。
さまざまな媒体で引用されているのは、以下のような文章である。

市民社会では人と人は対等である。注意は一方的(贈与)ではなく、されるほうにも納得される形でなされなければならない(商品交換)という感覚が生徒には強くある。教師からの注意が5のレベルでなされるとすれば、それはされる生徒にとって5の納得のような「等価交換」でなければならない(当然、ここでは「教える−教えられる」という共同体的な関係は無視されている)。

というのは、まさにおっしゃる通りであると思う。
思うが、これは、生徒(学生)に限ったものではないと思う。
社会全体がそうなったのである。決して生徒(学生)だけが突然変異したわけではないと私は思う。
そういった意味でこの種の問題へのアプローチは、「悪い部分があり、そこを抉り取れば治る」という「病因特定・患部摘出型」のアプローチではなく、「システム全体のダウンの伴う綻びであり、全体をよくすれば末端の症状は消える」という「ホーリスティックな」アプローチが必要ではないかと思う。
著者の主張としては、

その普通教育においてまず重視されるべきであるのは、「個性化」よりも「社会化」であり、まず市民的な個の形成にポイントを絞るべきである。事実、アメリカの指導的な社会学者であるローティも「社会化が個性化の前にくる」ことを原則として、普通教育では基礎的な知識や社会規範を身につけ、そのあとの高等教育で「個性化」を目指すべきとの二重の構造を提唱している。「個」が自立するまえに「個」を超える「普遍的なるもの」に出会う必要があるし、そういう「普遍的なるもの」によって「去勢」されなければ、「個」は自立しようがない。俗に「個性」を大事にしないと「個性」がつぶされてしまうと危惧する人が日本には多いが、市民形成(社会化)のプロセスでつぶされてしまうような「個性」はつぶされるべきである。そういうレベルの「個性」をつぶすために、「社会化」はなされるのである。「社会化」されているあいだになくなってしまうようなものは、「個性」ではない。まさに、「個性」が「個性」でありうるために「社会化」が必要なのである。「個性」は育てられたり教育されるものではない。

であり、現場からあげる声としては、これ以外にはないのだろうと思うし、教師からの提案としてはベストだと思う。「学校が悪い」「親が悪い」「社会が悪い」と罪のなすりつけがなされている世の論調に比べれば、おもしろく刺激的でいい指摘だと思う。
内田樹先生も2005年03月19日にオレ様化する子どもたち」という書評を書いているので、参考のためにリンクを貼っておく。

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