漂流 – 吉村昭 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 7 分

江戸・天明年間、シケに遭って黒潮に乗ってしまった男たちは、不気味な沈黙をたもつ絶海の火山島に漂着した。水も湧かず、生活の手段とてない無人の島で、仲間の男たちは次次と倒れて行ったが、土佐の船乗り長平はただひとり生き残って、12年に及ぶ苦闘の末、ついに生還する。その生存の秘密と、壮絶な生きざまを巨細に描いて圧倒的感動を呼ぶ、長編ドキュメンタリー小説。

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書評・レビュー・感想

以前読んだ「江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚」の中で無人島である鳥島に漂流し、サバイバルして帰還したという史実を知ったが、その代表例である土佐の長平を主人公にした物語を吉村昭が小説化したのが本書である。
鳥島と言ってもピンとこないかもしれないが、伊豆諸島の八丈島の枝島である青ヶ島のさらに先にある島であり、東京から約582kmも離れている無人島である。
Wikipedia – 鳥島

鳥島(とりしま)は、伊豆諸島の島(無人島)。全島が国の天然記念物に指定されている。特別天然記念物アホウドリの生息地としても有名である。

本書は、そんな鳥島に土佐の船乗りであった長平(野村長平)がアホウドリを食いつないで12年間生活し、後から漂着した人たちと一緒に船を造って青ヶ島、八丈島へ脱出し、本土まで帰還した物語である。

以前読んだ「江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚」では以下のような事例が載せられていた。

本書では、鳥島での漂流パターンを6つ紹介している。どれもアホウドリのおかげで長年の無人島生活を支えている。不毛な無人島でも長期間サバイバルを続けることができ、漂流記を生む島に鳥島がなる理由でもある。鳥島にアホウドリがいなければ、本書に登場する漂流者はすべて無数の行方不明者と同じ運命になっていたと思われる。
 1.1696年 志布志船の漂流 (鳥島滞在79日)
 2.1719年 遠州新居船の漂流 (鳥島滞在約20年)
 3.1738年 江戸宮本善八船の漂流 (鳥島滞在数日)
 4.1785年 土佐儀七船・長平の漂流 (鳥島滞在約12年)
 5.1788年 大阪肥前船の漂流 (鳥島滞在約9年)
 6.1790年 志布志船住吉丸の漂流 (鳥島滞在約7年)
面白いのは、1は単独での帰還であったが、2と3、4と5と6は、鳥島で漂流者同士として出会い、一緒に帰還していることである。2の遠州新居船の漂流から生き残った3人は、鳥島で20年もサバイバル生活をしており、3の江戸宮本善八船が漂着しなければ、だれにも知られずに鳥島で朽ちただろうことを考えると感慨深い。4の土佐儀七船の生き残りである長平は、無人島長平としても有名であり、5の大阪肥前船が漂着するまでの1年以上は他の漂流者を無くして1人で鳥島でサバイバルしていた。またその時に、2と3の漂流者たちが50年前に鳥島に残したものやメッセージなどを発見していて、運命の不思議さを感じた。

本書は、上記の4、5、6の漂流者たちの物語である。
長平たちが、この無人島である鳥島から脱出したのは、1797年であり、流木などで作った船で最も近い島である青ヶ島へたどり着く。しかし、この当時の青ヶ島は、以前読んだ「島焼け」にもあるように1785年の大噴火によって一時的に無人島となっており、八丈島に避難していた島民の一部が島へ戻るための準備として少人数だけが試験的に島に仮住まいしているだけであったが、青ヶ島の島民の力添えもあり、なんとか八丈島までたどり着く。


だが、本書のページの多くは鳥島でのサバイバル生活について書かれている。1785年に4人で流れ着いた長平は、相次いで他の3人をこの島で亡くす。その後1人でなんとか生き抜く。その後、1788年に大阪肥前船の11名が流れ着き、共同生活を行い、さらに1790年に志布志船の6名が流れ着き、3回に分けた漂流者による共同生活の後、碇から釘を作り出し、流木を集め、30石船を作って、生き残った14名で鳥島を脱出する。
鳥島での生活は、9月から翌4月まではアホウドリが島にいるため、それを食べ、いない間の食糧としてアホウドリの干物を作り、アホウドリがいなくなる4月以降は、アホウドリの干物を食べつつ、貝や魚などを食べるというものである。島には湧水や泉がないため、アホウドリの卵の殻に雨水をため、それを飲み水としていた。当初は火打石がなく火が使えなかったが、大阪肥前船の漂流民が火打石を持っていたため、島での生活が大きく改善し、志布志船の漂流民が大工道具を持っていたことから自力で船を作ることができるようになり、脱出のきっかけをつかむ。

やはり史実であるので、圧倒的なリアリティと凄みが読んでいて伝わってきた。なんとか生きて国に戻ろうとする切なさと無人島での生活の辛さが相まって、涙を禁じ得なかった。
Wikipedia – 野村長平

野村 長平(のむら ちょうへい、宝暦12年(1762年、1761年とも) – 文政4年(1821年))は、江戸時代の土佐国岸本浦(現在の高知県香南市香我美町岸本)の船乗り(水主)。船の難破による鳥島での無人島生活を経て、故郷に帰還した。無人島長平と通称された。
天明5年(1785年)1月、土佐藩赤岡村(現在の高知県香南市赤岡町)から田野(現在の高知県田野町)へ300石船(松屋儀七所有)にて御蔵米を運搬した帰路に、船は土佐沖で嵐(冬の大西風、シラ)に遭遇し、舵・帆柱を失って漂船となった。漂船は室戸岬を越えて黒潮に乗ったと推定され、結果的に当時無人島であった伊豆諸島の鳥島に漂着した。
漂着時には長平以外に3名の乗組員がいたが、漂着後2年以内に相次いで死亡し、以後長平は無人島での単独生活を強いられる。鳥島での主な食物はアホウドリの肉と卵、それに少量の海産物であり、当初は火種を持たなかったためそれらを生で食した。また長平らはアホウドリの肉は乾燥して保存し、これをアホウドリの不在期間(春の巣立ちから秋の営巣まで)の主な栄養源とした。水は雨水を水源とし、これを多数のアホウドリの卵殻などに蓄えた。
長平の漂着から3年後の1788年に大坂船が、さらに2年後の1790年に薩摩船が鳥島に漂着し、無人島生活者は十数名に増え、鍋釜・大工道具も揃った。彼らは長平と大坂船・薩摩船の船頭の3名をリーダー格として共同生活を送り、食料確保の他、住居や道の整備、ため池の工事などを組織的に行った。しかし、精神的な影響や栄養(ビタミン類と思われる)不足などで、漂着者のおよそ3分の1は死亡していった。
漂着から数年が過ぎても島の近傍に一隻の船影も見られないことから、故郷への帰還を目指す長平らは自ら船の建造を始める。材料となる木材は島に漂着する難破船の部品を手分けして集め、また釘については炉を構え、古釘や碇を溶かして作った。造船開始から数年の後、船体がつぎはぎだらけの30石の帆船が完成した。
船には生存していた漂着者14名全員が乗り込み、数日の航海で青ヶ島を経て、無事八丈島に辿り着いた。長平にとっては13年ぶりの社会復帰であった。一行はこの地で伊豆の国代官所(幕府直轄)の調べを受けた後、幕府の御用船で江戸に送られた。江戸での本格的な調べ(勘定奉行所および土佐藩邸)が済むと一行は解散し、それぞれ帰路に散った。これらの調べの記録は後世に残った。
長平は1798年(寛政10年)1月19日に土佐へ帰還した。この時、地元では長平の13回忌が営まれていた最中であったという。土佐への帰還の際、年齢は37歳であったが、土佐藩から野村姓を名乗ることを許された。その後、野村長平は各地で漂流の体験談を語って金品を得るなどし、また妻子にも恵まれ、60年の生涯を全うした。帰還後につけられた「無人島」という彼のあだ名は、墓石にも刻まれた。

漂流物の映画である「キャスト・アウェイ」もよかったが、リアリティは本作が圧倒的だった。
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