佐竹義宣 – 近衛 龍春 (書評・レビュー・感想)

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「鬼佐竹」「坂東太郎」と諸国に怖れられた父・義重を超えて、念願の常陸の旗頭となった佐竹義宣―。その所領は54万石余におよび、豊臣政権下では、関東に移封された徳川家康の目付役を担っていた。石田三成に恩義を感じた義宣は、天下取りに向かって小山から引き返す家康に佐竹得意の“追い討ち”をかけようと計るが…。時代の流れに抗った、北関東の若き義将の生涯を描く。

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書評・レビュー・感想

父親である佐竹義重については、以前読んだ。
Wikipedia – 佐竹義宣 (右京大夫)

佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。佐竹氏19代当主。出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる。

常陸国の戦国大名である佐竹氏第18代当主・佐竹義重(北城様)の嫡男として生まれ、若くして家督を譲られる。佐竹義宣は、伊達、北条と対立しながら、豊臣秀吉や上杉景勝と結ぶ。秀吉の小田原征伐の機に秀吉に臣下の礼をとる。その結果、秀吉から朱印状をもらった石高は約25万石であった。
その後、従四位下侍従・右京大夫となり、常陸国の支配強化のために居城を太田城から水戸城へ移す。秀吉の野望である唐・朝鮮入りには参加するも、義宣自身は朝鮮には渡らなかった。これは、佐竹家が徳川家康の抑えであったためと言われている。1594年の太閤検地の結果、石高は約54万石となる。
秀吉の死後、・・・関ケ原の戦いが起こる。この時の佐竹家は、父・義重が東軍派、息子・義宣が西軍派として意見が別れ、どちらにも味方しないような態度をとったため、関ケ原の戦い後に、常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へ転封させられる。
歴史にIFはないが、関ケ原の戦いの前に東軍が小山から関ケ原に向かう際に佐竹義宣が後ろから追撃していれば・・・・と考えなくもない。
本人も死ぬまでそれを後悔したともいわれている。
過去に読んだ、同時代人の伝記系。
加藤清正
細川忠興
黒田長政
宇喜多秀家
島津義弘
滝川一益
大谷刑部
福島正則
秋田転封後は、新たな政策の実施と人材登用によって支配体制を確立し、当時20万石だった石高は、江戸中期には倍以上の45万石にまでなったと言われている。

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