坂本龍馬を斬った男 – 今井 幸彦 (書評・レビュー・感想)

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坂本龍馬を斬った男 (新人物文庫 い 3-1)
今井 幸彦
新人物往来社

今井信郎の妻いわの口伝によれば──龍馬暗殺当日の慶応三年十一月十五日朝、桑名藩士渡辺某が今出川千本の仮寓を訪れ、二人はひそひそ話し合っていたが、やがて信郎は「ちょっと出てくる」と、連れ立って家を出た。その日は早朝から底冷えがきびしく、氷雨しぐれが降っては止む天気だった。そしてこの夜、夫は帰宅しなかった・・・・。

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書評・レビュー・感想

以前、磯田道史の「龍馬史」を読んで、坂本龍馬を斬った男と言われている今井信郎について、今井家には口伝が残っており、孫の今井幸彦がそれをまとめているという情報を得た。それが本書「坂本龍馬を斬った男」である。
本書は昭和58年8月(1983年)に刊行されたものである。
著者は、今井信郎の孫・今井幸彦である。今井信郎は、大正7年に78歳で死去しているが、著者の生後3ヶ月後だったとのことで、ごく短期間ではあるが、今井信郎と著者はこの世で生を共にしている。
今井信郎以外に坂本龍馬を斬ったと証言している人物がもう1人いる。それが渡辺篤である。

当初は、渡辺篤と今井信郎の証言で食い違いがあり、龍馬暗殺約40年後の臨終間際での渡辺篤の証言は売名行為と言われていたが、渡辺篤の証言にしか登場しない世良敏郎という人物がその後実在の人物であることが分かり、さらに現場に置き忘れたとされた刀の鞘が、当時、新撰組の原田左之助の物とされていたが、世良敏郎の物であることがわかり、証言に真実味が帯びたと言われている。この世良敏郎が現場にいたことは間違いなさそうである。

この渡辺篤の証言の中で語った世良敏郎という人が今井信郎証言を含め、どこにも出てこないため、そもそも存在しないのではないかと言われていたが、後年、慶応三年に見廻組の世良家が幕府に桑名藩の小林甚七重幸を世良敏郎として養子に迎えたいという養子縁組の願いの文書が発見されたため実在が証明され、渡辺篤の証言に真実味が帯びた。
しかしながらこの世良敏郎の実在が証明される前に本書は出版されているため、著者は渡辺篤について以下のように述べている。

篤が二条城勤番与力だったという経歴(これは借り物ではないとしての話だが)は、渡辺一郎のそれと一致する。したがって吉太郎はやはり桑名藩士で、戦士し、それを確認しているから信郎も安心して、口書中に自白した。一方の渡辺一郎(のち改名し篤)は見廻組ではあっても事件とは無関係で、その後、組の誰かから聞いたか、谷千城一派の一大PRで知ったかのどちらか、と見るのがいちばん自然ではあるまいか。
では、なぜ篤はこんな大芝居を打ったのだろうか。筆者の想像にすぎないが、篤が臨終近い枕頭に呼んだのは弟と弟子だったこと、娘きみ女は転々と居所を変え、親子の中もなにかすっきりしないこと、決して売却相成らずの家訓を自ら犯して刀を売りに来た一説のあること、などの諸点を勘案すると、おそらく後継ぎの男子にも恵まれず、娘も嫁入りしたのかどうか、その晩年は不遇で孤独なものだったように思われる。いってみれば、貧しい孤独な老人の、たまたま同姓にヒントを得た夢物語であり、また、なにか人々の関心を引いてみたくなった寂しさからであろう。まこと気の毒な老人である。その老人のささやかな夢を、跡形なく粉砕してしまったことは、たとえ故人といえ、申し訳ない気持である。

世良敏郎の実在が証明され、渡辺篤の証言に真実味が帯びた近年の研究結果からすると、著者のこの文章は著者の妄想であったことがわかり、やはり近親者というのは我田引水的な要素から抜けきれないものであることをはからずしも証明してしまったようにも思われる。人間だれしも自分の問題になると保守的になることは致し方ない。著者を責めることはできないだろう。
本書には今井信郎の親族にしか書けない要素がたくさんあり、非常に有益ではあったが、近江屋事件の実行犯が誰であったかを示すものとしては弱い印象だった。

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