とまどい関ヶ原 – 岩井 三四二 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 3 分

とまどい関ヶ原
岩井 三四二
PHP研究所

敵中突破しての大坂行き。でも、同行者がヘンだ!毛利家の野望と、安国寺恵瓊の習慣は相性が悪い?両軍にいい顔をしたら、わが城が東西の境目に!手勢わずか六百。なのに関ヶ原の勝敗の鍵を握らされた!天下分け目の合戦は人生の分かれ目!栄達か、しからずんば死か。大きな岐路を前にとまどう男たちを、温かく(?)描いた傑作短篇集。

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書評・レビュー・感想

安定感抜群の岩井三四二作品である。
本作は、関ケ原にまつわる話を集めた短編集であり、8つの短編からなっている。
 ・大根を売る武者
 ・百尺竿頭に立つ
 ・松の丸燃ゆ
 ・日本一幸運な城の話
 ・草の靡き
 ・すべては狂言
 ・敵はいずこに
 ・十九歳のとまどい
それぞれ主人公は、池田輝政家中の武士、安国時恵瓊、伏見城落城下の甲賀者、犬山城主の石川備前守光吉、朽木弥三郎、吉川広家、徳川秀忠、宮部長房となっている。
「百尺竿頭に立つ」と「すべては狂言」は連作となっている。
この中でよかったのは、関ケ原の戦い後に南部家預りとなった宮部長房本人による語りというていの話である「十九歳のとまどい」である。これはなかなかだった。
Wikipedia – 宮部長房

慶長5年(1600年)の会津征伐には500人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けて反転して西上した。鳴海まで来たところで、小舅の池田秀氏が飛脚を寄こして西軍に付くよう言ってくる。 与力の木下重堅、垣屋恒総がすでに西軍に走ったこともあり、家中の大将格の七人衆に相談したところ、三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は西軍に付くよう進言してきたが、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門らは反対する。
しかし長房の心は西軍に動いていたので、熱田の渡しから桑名に行こうとしたが、見張りがいて船の往来ができないので、夜に渡ろうと船を一艘借り出し銀二百枚を渡し約束し、大勢は乗れないので上下の者十三人で夜中に陣中を抜け出し熱田に向かったが、船はいなく辺りを捜しまわる。手勢の者達は、陣中に大将が見えなくなって、西軍に走ったに違いないと考え、追いつく方法もなく、大将が居なくてはどうしようもなく、昔からの縁故がある田中吉政に皆で掛合ってその軍勢に加わった。 結局、船は見つからず夜明けを迎えたため自陣へ戻ってきて呆然としているところを、徳川の目付けがこのことを聞き付け長房は岡崎城に押し込められてしまう。
西軍の敗戦後、居城の鳥取城は亀井茲矩、斎村政広の攻撃を受け開城し、鳥取5万石の所領は没収されてしまう。 戦後、敵味方の処分詮議があり長房は死罪になりかけたが、田中吉政が自分の旧主で昔の恩義が忘れられないと助命嘆願をしてくれたため、三田村太郎右衛門と高坂清兵衛の二人は切腹させられたが、長房は当分の間、田中吉政に預け置かれる。翌年12月17日にその身柄を南部利直に預けられ、現米123駄70人扶持(約460石)を給された。 その後、剃髪して長令と号し、寛永11年(1634年)盛岡で没した。
晩年の寛永7年(1630年)に、寝返り行為を行ったのは、田中吉政にだまされてしまったためであるとの文書を幕府に提出した。しかし、吉政ほか既に多くの検証できる人物が死んでしまった後のことで真偽は定かにはならず、沙汰やみとなってしまった。現在も真相は不明なままである。

やはり安定感の岩井三四二である。
しっとりと落ち着いて読める。

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