功名が辻〈2〉 – 司馬 遼太郎 (書評・レビュー・感想)

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功名が辻〈2〉功名が辻〈2〉

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書評・レビュー・感想

第二巻は、天正十年(1582年)、信長の中国征伐から物語は始まる。
本書「功名が辻〈2〉」は、文禄三年(1594年)、秀吉が狂い始めるまでである。
この時までに、伊右衛門は掛川6万石の大名になる。
本能寺の変後、秀吉の運が開けたことにより、伊右衛門の運も開けることになる。
秀吉が柴田勝家を破った時点で、伊右衛門は、3500石。
この時までに、幼少からの郎党の五藤吉兵衛を失っていた。
この時、秀吉は628万石、家康は138万石であり、動員兵力は1万石で250人前後であったので、秀吉15万人強、家康3万5千人と大差がついていたが、秀吉vs家康の戦いは、伊右衛門の人生で初の負け戦となる。
その後、長浜2万石の大名に出世し、この時、後に家老となる家来(乾彦作、福岡市右衛門、深尾湯右衛門)を召抱える。この時に召抱えた者の多くは美濃出身であった。
秀吉の山内一豊評は以下のようなものである。

吏才は石田三成にはるかにおよばず、武勇は加藤清正の指ほどにもない凡庸な男

だが、秀吉治世では北条征伐後に掛川6万石の大名までになる。
凡庸な男になぜ6万石か?
伊右衛門は、数々の戦場に出ているが、大きな手柄というものはないが、大きな失敗もない。売りは「律儀さ」である。例えれば、ホームランは打たないが、2割5分は平均して打ち、チームバッティングに徹してバント失敗やエラーなどをしないまずまず堅い7番打者といったところだろう。
豊臣チームの監督秀吉は、全員が4番打者では勝てないことがわかっていたのだと思う。
適材適所で、7番打者も必要だということだろう。
他にいくらでも代替可能である人材というのはいくら優秀でもそれほど重宝されない。
重宝されるのは、代替不可能な人材である。伊右衛門は、「律儀さ」という特異な能力で秀吉にとって代替不可能な人材のポジションを得ていたと考えられる。

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