★★★★☆[映画] パッション – The Passion of the Christ (レビュー・感想・解説・ネタバレ)

【この記事の所要時間 : 約 6 分

メル・ギブソンが構想12年、私財を製作費に充て、イエス・キリストの最後の12時間を、できる限り史実に従って描いたという渾身の一作。神を冒涜しているという罪で捕らえられたイエスが、ローマ帝国の総督ピラトのもとに連行される。ピラトは民衆の声に押され、イエスを十字架に掛けると判決を下す。イエスは拷問を受けた末に、十字架を背負ってゴルゴダの丘へと歩いていく。

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レビュー・感想・解説・ネタバレ

完全ネタばれなので、映画未視聴の方は、決して読まないように。

イエスの受難に関して、教会や美術館などにある多くの宗教画を映像化したメル・ギブソン監督作品である。聖書をもとにした「ギブソンの福音書」ともいえる聖書スペクタクル映画である。

非クリスチャンとしては、西洋文化の素養として見ておくべき作品かと思う。聖書をじっくり読んだことがなくても、いわゆる聖書入門書や聖書ガイドのような軽いものを事前に1冊読んでおくとより楽しめるかと思う。

冒頭は、ゲッセマネの園のシーンから始まる。自分の運命を知ったイエスがゲッセマネの園で祈りを行うものであるが、ここでは悪魔が誘惑している。蛇は悪魔のシンボルであり、その悪魔のシンボルである蛇を踏みつぶすことによって悪魔の誘惑を拒絶したことが映像化されている。
その後、裏切り者のユダとユダヤ教大司祭の手下がイエスを捕えにくるが、弟子のペトロが大司祭の手下の耳を剣で切り落とすシーンがある。この耳はイエスによって元通りにされるが、切られた右耳は福音を聞く耳とされており、真理の敵であれ、聞く耳は持たねばならないとされていることからイエスが触れて癒したとされている。

ユダヤ教大司祭の元で裁判にかけられるイエスであるが、本作品では一貫してイエスを実際に殺したのはローマ兵だが、殺すように求めたのはユダヤ人であることが描かれている。これによってこの作品は反ユダヤ主義として批判されているという一面もある。監督のメル・ギブソンはアイルランド系アメリカ人であり、熱心なカトリック教徒であるため、反ローマ帝国、反ユダヤ主義という作風になっているものと考えられる。(メル・ギブソンは反ユダヤ発言でたびたび物議をかもしている人でもある)

ユダヤ教大司祭の元での裁判にてイエスはが神を冒涜する言葉を吐いたとして、大司祭は自分の服を引き裂いているが、これは、拒絶ないし決裂のシンボルである。シーンとしては、福音の拒絶を意味している。

ユダヤ教大司祭からイエスを引き渡されたローマ帝国のユダヤ州提督ピラトの苦悩も描かれている。ここでは、ピラトの妻がイエスを助けるよう求めたシーンも含まれており、ピラトはユダヤ人の暴徒化を恐れ、イエス処刑を求めるユダヤ人の求めに不本意ながら応じている。逆にユダヤ人監督がこの作品を映像化すれば、ピラトやローマ帝国がイエスを殺したことを強調するように作るだろう。

イエスが、ローマ兵に鞭打ちの刑にされるシーンはとてもリアルである。血が吹き出し、傷ついていく様子が長時間映像化されている。ピラトの妻クラウディアがマリアに布を渡し、マリアのその布でイエスが鞭打ち刑で流した血をふくシーンは、マリアの苦悩がうまく表現されていると思う。

その後、イエスは、いばらの王冠をかぶせられる。これは肉体的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみをもたらすためになされたことである。そしてローマ兵たちはイエスに唾をはきかける。この唾にも肉体的、精神的に人を汚すという意味がある。

そして、イエスが十字架を背負って処刑場となるゴルゴダの丘へと登っていくシーンとなるが、聖書を読んだだけではこのような雰囲気はわからなかったので映像化された意味合いが少しわかった気がした。ここではローマ兵によって無理に十字架を担がされたキレネのシモンや、キリストの顔を布でぬぐったヴェロニカなども登場し、回想シーンでは、イエスの少年時代、マグダラのマリアとの出会い、エルサレム入場、最後の晩餐など有名なエピソードがたくさん出てくる。

ゴルゴダの丘で十字架に架けられるイエスの手や足に釘が打たれるシーンは生々しく、銃で撃たれたりするよりもおどろおどろしかった。裁判から鞭打ち、十字架刑まで見届けていた3人は聖母マリア、マグダラのマリア、使徒ヨハネであるが、娼婦であったと言われるマグダラのマリアが長い髪をほどいた姿となっているのは、髪が淫欲と虚栄のシンボルであり、彼女の乱れた生活を暗示しているからである。

十字架に架けられたイエスが空にはばたく白鳩を見つめるシーンがあるが、白鳩は聖霊のシンボルであり、イエスが天の父なる神と聖霊と三位一体であることを表現していると思われる。また、聖母マリアが十字架に架けられたイエスの足に口づけするシーンがあるが、聖金曜日に十字架像の足に口づけする習慣の発端を意味するものとして位置づけられていると思う。

十字架刑は、失血と脱水によって死ぬまで放置するという刑であるが、映像としてみると非常に残酷で苦しい刑であることがわかる。すぐに死ねずに苦しんで死んでいく刑である。イエスが死んでいるか確かめるためにローマ兵がイエスの脇腹を槍でつくシーンでは、聖書の記述通り、血と水がでている。これは洗礼を予示する水と聖体の秘跡を予示する血を表していると思われる。

キリスト教のもっとも重要なシンボルといえば十字架であるが、そのシンボルが出来上がるのをリアルタイムでみるような感じの作品であった。十字架を含めて、イエスの受難に関連した物品の多くは、受難具としてシンボル化されている。葦、いばら、王冠、雄鶏、海綿、釘、釘抜き、剣、さいころ、罪状書き、杯、チュニカ、縄、布、はしご、柱、鞭、目隠しの布、槍などである。

最後の天からイエスを見る視点の映像とそこから落ちる一滴の雨(神の涙)のシーンは、イエスの「なしとげました」という発言に対する神からの応答のように感じた。イエスのセリフがすべて聖書からの引用であることから聖書に忠実であろうという姿勢がみてとれる。史実に忠実かというとかなり厳しいが、聖書にはかなり忠実ではあると思う。(もちろん聖書に書かれていないことも含まれているが)

非クリスチャンとして、本作品を見た後の感想としては、イエスを救世主と信じるものではないが、死んだら皆、神になるという日本人的感覚での神としてなら、イエスを信じることができる気がした。

キリスト教シンボル事典 (文庫クセジュ)
ミシェル フイエ
白水社

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