るにんせん – 團 紀彦 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 7 分

るにんせん (新風舎文庫)
團 紀彦
新風舎

賭博の罪で「流人」として八丈島に島送りにされた喜三郎は、幕府が絶対禁制のおふれを出していた地図「伊能図」を見た。一方、遊郭に付け火をした罪で流人となった女郎、豊菊もまた十七年の間島を出ることを考え続けていた。天保九年七月、喜三郎は潮の流れから「抜け舟」の決行を決意する。策略、愛憎、裏切り、欲望が渦巻く八丈島で二人の運命が交差、一枚の地図がその後の流人たちの運命を左右してゆく―。膨大な資料をもとに、実際の流人たちの史実に基づいて描かれた壮大な歴史時代小説。

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書評・レビュー・感想

八丈島に関する本としては、先日、八丈島研究の資料として高く評価されている「八丈実記」を著した最後の流人・近藤富蔵をモデルにした「海嘯(かいしょう)」を読んだが、、流人が八丈島から脱出するいわゆる「島抜け」に関する本を読んでみたいと思い、手に取ったのが本書である。
本書の主人公である佐原喜三郎が八丈島に遠島になったのは、1837年であり、翌年1838年に「島抜け」を実行している。
「八丈実記」の近藤富蔵が八丈島に遠島になったのは、1827年であるため富蔵が八丈島滞在10年目を迎えた年に佐原喜三郎は八丈島にやってきている。
八丈島から約70キロ先にある枝島である青ヶ島は、天明五年の大噴火で、無人島と化し、辛うじて八丈島に逃れた島民が50年かけて帰島(還住)しているが、それは1785年~1835年までの50年間である。よって佐原喜三郎は八丈島にやってきたのは、青ヶ島の帰島(起こし返し)が完了した数年後ということになる。この話は、「島焼け」という本に詳しい。本書にはその記述はないが、「青ヶ島のモーゼ」と讃えられる青ヶ島名主・佐々木次郎太夫と佐原喜三郎は八丈島で会っているかもしれない。
1837年~1838年頃の八丈島には、「八丈実記」の近藤富蔵、「青ヶ島のモーゼ」の佐々木次郎太夫、「島抜け」の佐原喜三郎という現代にまで名前が伝わっている伊豆諸島の有名人3人が一同に会していた可能性がある。そう考えるとなかなか面白い。
1830年頃には、青ヶ島の先、鳥島のさらに先の無人島だった小笠原諸島・父島に白人とハワイ人が初めて入植している時期であり、なかなか面白い時期でもある。
本書は、「八丈実記」や「島焼け」と異なり実話ではなく時代小説であるが、元となっているのは佐原喜三郎が著した「朝日逆島記」であるので事実を著者目線で脚色しているといった感じである。たとえば、近藤富蔵は、文政の三蔵の一人である近藤重蔵の長男であるが、近藤重蔵から幕府禁制の地図「伊能図」を形見としてもらったとし、その地図を八丈島で佐原喜三郎が盗み見し、その情報を生かして島抜けを行ったとしている。「八丈実記」にはそのような記述はないので事実ではないとは思われるが、可能性としてはないこともないので、面白い視点だと思う。またちょうど当時、地図が問題となったシーボルト事件との関連もありなかなか読ませる小説となっている。
Wikipedia – 佐原喜三郎

佐原 喜三郎(さわら の きさぶろう、文化3年(1806年) – 弘化2年6月3日(1845年7月7日))は、江戸時代後期の侠客である。本名、本郷喜三郎。法名、朝日象現。
天保7年(1836年)、29歳の時、芝山(現在の山武郡芝山町)の博徒仁三郎を殺した。原因は、渡世上の争いとも、女絡みともされる。この間、同年2月21日に逮捕され、5月25日、勘定奉行によって遠島の沙汰が下り、10月10日に島送りになり、三宅島で風待ちの後、天保8年(1837年)5月、八丈島に到着した。島に着いた喜三郎は、虚無僧となって恵みを受けて命をつないだ。乞食同然の暮らしぶりだったとされる。
天保9年(1838年)7月3日、喜三郎は吉原の遊女花鳥他5名を伴に島を脱出する。島を後にしてから翌日までは順調だったものの、大島と三宅島の間に差し掛かると、風向きが変わり激しい時化に見舞われ帆柱を破損しながら困難な航海を続け、9日には鹿島荒野浜に到着した。その後喜三郎は花鳥を連れ鹿島神宮に参詣したのち、13日には密かに佐原に帰った。
家に帰ってみると父は重病であったが、思わぬ喜三郎の来訪に涙を流して喜んだ。しかしまもなく佐原の町にも、喜三郎の島抜けの噂が伝わり、子分が面会を求めたりするなど、潜伏しづらい状況となっていた。そして7月22日には花鳥をつれて佐原を離れ、江戸に向かった(翌月1日に武右衛門は死去している)。
翌23日、江戸に着いた喜三郎は、花鳥と伴に浜町に潜伏したものの、同年10月3日に捕まった。伝を頼り、下関に向かう途中だったともされる。その後、花鳥は死罪になったものの、蔵前の札差から金が差入れられた事が功を奏してか喜三郎は永牢となり、牢名主を務めた。この間著書「朝日逆島記」を著し幕閣に提出したことが評価され、弘化2年(1845年)江戸十里四方追放に減刑。5月9日釈放されるも、長年の牢暮らしで病に罹り翌月3日、39歳で死去。江戸で火葬にふされ、遺灰だけが佐原に戻ってきたとされる。 墓所は千葉県香取市の法界寺。

本書は、この佐原喜三郎と元・吉原の遊女花鳥の話である。
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地図にしてみると、八丈島は意外と東京から近いように思うが、江戸時代には考えられないほど遠いとみなされていた。時代が進んで第二次世界大戦前後になると、さらにその先の島が脚光を浴びることになる。それが、太平洋戦争の激戦地(硫黄島の戦い)として知られる硫黄島アナタハンの女王事件で有名なアナタハン島などである。
この八丈島からの島抜けの話、本書を原作として映画にもなっている。それが、奥田瑛二監督の「るにん」である。

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江戸・吉原に火付けをした罪で流人となった花魁・豊菊(松坂慶子)は島役人・稲葉重三郎(根津甚八)に流人仲間の罪を密告し、飢饉の激しい流刑の地 八丈島で生きるために男たちに体を売って生き延びてきた。それもただひたすら’御赦免状’を貰い、再び江戸へ帰るため。しかし、待てど暮らせど御赦免状は届かない。稲葉が豊菊の体を弄んでいたことを知ると、豊菊は稲葉の股間を刀で斬り付けた。逆に稲葉の怒りを買った豊菊は、折檻を受けてしまう。心身共にボロボロになった豊菊を介抱したのは、博打の罪で流人となって送られてきたばかりの喜三郎(西島千博)。日頃、男たちの’慰み者’として姉御肌を効かせていた豊菊が「こんな汚れた体で、こんな島の土になりたくない」と嘆き悲しむ姿を見て、喜三郎は優しく豊菊を抱擁しながら誓う。「俺が江戸に帰してやる」。そして、喜三郎は愛する者のため、絶対不可能とされた「抜け舟」に命を懸けて挑んでいく・・・

また、1945年から1950年にかけてアナタハン島で発生した多くの謎が残る大量死亡事件「アナタハンの女王事件」を題材にした映画も作られている。木村多江主演の「東京島」である。

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