海嘯―逸と富蔵の八丈島 – 乾 浩 (書評・レビュー・感想)

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書評・レビュー・感想

東京の離島・青ヶ島を舞台にしたマンガ「鬼虫」を読んだ後、青ヶ島と八丈島に関する本を読みたいと考えていた。その後、青ヶ島に関する本として島焼けを読んだ。
そして八丈島に関する本として選んだのが本書「海嘯(かいしょう)」である。
「島焼け」は、天明五年の大噴火で、無人島と化した青ヶ島へ、辛うじて八丈島に逃れた島民が50年かけて帰島(還住)する実話であるが、時期としては、1785年~1835年までの50年間である。
本書は、八丈島の研究の資料として高く評価されている「八丈実記」を著した最後の流人・近藤富蔵をモデルにした話である。近藤富蔵は1827年に八丈島に流罪とされているため、「島焼け」の主人公で青ヶ島への起こし返しを成功させた佐々木次郎太夫が八丈島にいた時期と重なっている時期がある。本書ではそのあたりは触れられていなかったが、「島焼け」では少しだけ触れられていた。
Wikipedia – 近藤富蔵

近藤 富蔵(こんどう とみぞう、文化2年5月3日(1805年5月31日) – 1887年(明治20年)6月1日)は旗本近藤重蔵(近藤守重)の長男として生まれる。
富蔵は1826年(文政9年)博徒あがりの町人、塚原半之助と父重蔵が持つ別荘の地所境界争いから、塚原半之助とその妻や母親、子供計7名を殺傷し、その罪から同年に伊豆諸島の八丈島に流罪の判決。俗に言う「鎗ヶ崎事件」である。翌1827年(文政10年)八丈島へ。
流人生活の間に、「八丈実記」72巻(清書69巻)を著作。その著作は「八丈島の百科事典」とも呼ばれ、この地域の研究者にとって貴重な資料となっている。「日本における民俗学者の草分け」と柳田国男は富蔵を評した。
1880年(明治13年)2月27日、明治政府より赦免を受け53年間の流人生活を終える。赦免後のその年一旦は本土に戻るが親戚への挨拶回り、近江国大溝藩内円光禅寺の塔頭瑞雪院にある亡父重蔵への墓参、西国巡礼を済ませた2年後の1882年(明治15年)再び八丈島に帰島し、その後一観音堂の堂守として、島で生涯を終えた。享年83。

本書は、上記のWikipediaで書かれている内容が小説として書かれている。副題が「逸と富蔵の八丈島」となっているのは、八丈島の島民である逸を妻として八丈島での人生を生き抜いた富蔵の姿が書かれているからだと思われる。
逸は、関ケ原の戦いで敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家の分家筋の子孫であった。八丈島は火山の島であるので米がとれず、飢饉になると餓死者がでるほどの貧しい島であったが、そこで流人である富蔵がどのように生きて、なぜ八丈島の百科事典とも言われる「八丈実記」を書くに至ったのかなど非常に読みどころがたくさんあった。
江戸幕府が倒れ、明治政府ができるとほとんどの流人が赦免となって江戸へ帰っていくが、富蔵が赦免となったのは1880年(明治13年)と非常に遅く、すでに流人生活53年間であり、76歳となっていた。赦免後、一旦江戸へ戻るが、数年後には八丈島へ戻ってきており、ここで亡くなっている。
富蔵の父親は、千島列島、択捉島を探検し、「大日本恵土呂府」の木柱を立てるなど蝦夷地の調査、開拓で著名な旗本・近藤重蔵である。
面白いことに、「坂本龍馬を斬った男」として有名な元・京都見廻組の今井信郎は、明治維新後に静岡県吏となり、明治九年に伊豆諸島の巡視を命ぜられ、十二月に八丈島に来島し、近藤富蔵と会っているとのこと。そして、この時に近藤富蔵は、「八丈実記」を今井信郎たち静岡県吏へ見せている。その後、八丈島の担当が静岡県から東京府に代わるに伴い、今井信郎たち静岡県吏が東京府へこの件を申し送り、東京府の官吏によって「八丈実記」を清書し、上納することが命ぜらえるという流れとなっている。歴史というのは不思議ですね。
八丈島には江戸時代に千数百人の流人が送られているが、島から脱出するいわゆる「島抜け」は何件かあったようであるが、たいていは海に消える運命だったようであり、本土に無事到着した事例は佐原喜三郎が吉原の遊女・花鳥らと実行したケースのみらしい。
八丈島からの島抜けの話は映画にもなっている。奥田瑛二監督の「るにん」である。

るにん [DVD]
タキコーポレーション

江戸・吉原に火付けをした罪で流人となった花魁・豊菊(松坂慶子)は島役人・稲葉重三郎(根津甚八)に流人仲間の罪を密告し、飢饉の激しい流刑の地 八丈島で生きるために男たちに体を売って生き延びてきた。それもただひたすら’御赦免状’を貰い、再び江戸へ帰るため。しかし、待てど暮らせど御赦免状は届かない。稲葉が豊菊の体を弄んでいたことを知ると、豊菊は稲葉の股間を刀で斬り付けた。逆に稲葉の怒りを買った豊菊は、折檻を受けてしまう。心身共にボロボロになった豊菊を介抱したのは、博打の罪で流人となって送られてきたばかりの喜三郎(西島千博)。日頃、男たちの’慰み者’として姉御肌を効かせていた豊菊が「こんな汚れた体で、こんな島の土になりたくない」と嘆き悲しむ姿を見て、喜三郎は優しく豊菊を抱擁しながら誓う。「俺が江戸に帰してやる」。そして、喜三郎は愛する者のため、絶対不可能とされた「抜け舟」に命を懸けて挑んでいく・・・

八丈島と青ヶ島は、死ぬまでに1回は言っておきたい場所である。

るにんせん (新風舎文庫)
團 紀彦
新風舎

天保九年七月(1838年)八丈島で起きた佐原喜三郎の「抜け舟」事件を、当時実際に流人であった近藤富蔵が60余年の八丈島生活の中で書いた「八丈実記」と、当時のるにん一人ひとりについて書かれた「八丈島流人銘々伝」に書かれてあった事実に基づき書きおこされた、歴史時代小説。賭博の罪で「流人」として八丈島に島送りにされた喜三郎は、幕府が絶対禁制のおふれを出していた地図「伊能図」を見た。一方、遊廓に付け火をした罪で流人となった女郎、豊菊もまた十七年の間島を出ることを考え続けていた。天保九年七月、喜三郎は潮の流れから「抜け舟」の決行を決意する。実際に八丈島からの抜け舟を成功させた流人は佐原喜三郎とともに船に乗っていた7名しかいない。策略、愛憎、裏切り、欲望が渦巻く八丈島で二人の運命が交差、一枚の地図がその後の流人たちの運命を左右してゆく䈁/blockquote>

流刑
流刑

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段木 一行
文芸社

時代は、江戸幕府崩壊を目前に控え、近代の足音がしのびよる幕末。本書は、流人として伊豆新島で暮らすことになった男たちの数奇な運命を描く。波瀾に富んだ主人公の半生とともに、身分制社会の崩壊にともなう諸階層の混乱を巧みに描き出した歴史小説である。また本書は長年、歴史研究者として歩んできた著者の作品だけに、島の歴史・風土・伝承などが散りばめられ、興味は尽きない。

江戸時代、八丈島は配流の島だった。延べ1800人を超す流人のなかには理不尽な施政の犠牲者も数多い。文化14年、斎藤守孝は流罪となった父の付き添いとして渡島した。以来赦免となるまでの25年間、閉塞された島で展開する愛憎の日々を抱擁力豊かな筆致でつづる傑作長編。第4回時代小説大賞受賞作。

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