何をいまさら – ナンシー関 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 3 分

消しゴム版画家であり、テレビハードウォッチャーの著者がTV業界を徹底的に斬り尽くす内容である。
・すべての意味を払拭するジャイアント馬場のでかさ
・愛川欽也の強引なキャラクターに隠された謎
・宜保愛子の栄光の秘密
・芸能レポーターたちの不気味な怪しさ
・お涙ちょうだい番組への憤懣
・「正解絶対快楽性」を生むクイズ番組の魔力
芸能人やTV番組への疑問、怒り、そして意外な真実。
超辛口にして痛快なTVコラム。

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書評・レビュー・感想

なかなか鋭いという点では、「ギャル性」についての考察である。なぜ鋭いかというのはひとまず置いておいて、ギャル性となにか?とは深遠なテーマであるが、もっとも適切な一面として「無自覚ゆえに、否定されないという強大な自信」があると定義する。そして自覚はないが、根拠はあるという。その根拠とは、自分がギャルであるということである。そしてまたその自信は結構通用しているという。通用する原因はギャルだからだと。
なるほどと思う。その通りだとも思う。
これを読んで思ったことは、ギャル性と幼児性は似ているということである。幼児性とは、「無自覚または無垢ゆえに、否定されないまたは否定できないだろうという自信」と定義できる。その根拠とは、自分が幼児であるということだと思う。
そこで最近思うことは、このギャル性ならぬ幼児性をもつ大人が増えたことだ。そしてそこに違和感を感じる理由を私はすでに分析済みだ。それは、根拠が無くなっているにもかかわらずそれに気づかないまたは無自覚であるがゆえに幼児性を持つ大人が存在しているのだ。ギャル性や幼児性が許されるためには、ギャルであることや幼児であることが世間では求められるが、幼児性を持つ大人は、ギャルでも幼児でもない。(精神年齢的には幼児だが。)
根拠に無自覚であるがゆえにその精神構造に居座れるのだ。若い女性にありがちだが、年配の方にタメ口に近い言葉使いをする場合、その女性がギャルとしての存在が許されるなら不問にされ、ギャルとしての存在が許されないなら注意を受ける。このギャルであるかどうかの基準の難しいところは、その若い女性が自分で自分のことをギャルであるかどうかを判定するのではなく、その相手方(ここでは年配の方)が判定することだということだ。そこで必要とされることは、若い女性は自分はどっちと判定されているのかを適切に知ることだと思う。
これを世間一般では「空気を読む」というのだろう。この自分の判定と相手方の判定が異なる場合、つまり自分がギャルと思っていても相手はそうだと思っていない場合、そのギャップが違和感となり、根拠に無自覚な人物としての評価を受けてしまう。この構造はなにも若い女性にだけあてはまるものではないが、年配の会社重役に対して、ホステスがタメ口を許され、OLが許されないというのは、そこにギャル性が根拠としてあるかないかだと思う。結局、本の話からそれてしまったが、まあ結構悪くはない本です。
(過去ブログからの転載シリーズ)

本エントリーは、過去に運営していたブログから転載したものであり、一部書き直しならびに追記をしてあります。

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