「すみません」の国 – 榎本 博明 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 4 分

「すみません」の国 (日経プレミアシリーズ) (日経プレミアシリーズ 157)
榎本 博明
日本経済新聞出版社

「すみません」とすぐに言う、「それはいいですね」と言いつつ実は拒否している、自分の意見を押し出すと「空気が読めない人」になる、全員が“首をかしげる”提案がなぜか会議で認証される――日本独自のコミュニケーションの構造をひもとく『「上から目線」の構造』著者の最新刊。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

書評・レビュー・感想

日本人がすぐに「すみません」という背景を著者は以下のように書いている。

どちらの責任かをはっきりさせずに、「お互い様」という落としどころにもっていき、双方の面子を立てながら「場」の雰囲気を良好に保つというのは、言ってみれば個人の責任でなく「場の責任」とする発想である。だれか個人が悪いというのではなく、その「場」の状況が特定のトラブルを生んだ。ゆえに、悪者探しをして、特定の個人を責め立てたり、責任を追及したりといった無粋なことはせず、ものごとを平和に収拾させる。このような発想が背景にあるからこそ、気軽に謝罪することができる

この発想のメリットとして、
 ・ ものごとを平和に解決することができる
というものがあるが、デメリットとしては、
 ・ 責任が曖昧、または無責任になる
ということがある。またこの発想を悪用して、本来、明らかに責任を問われるべき人物が「場の責任」を盾に責任逃れを行うということがある。この発想を「場」発想とすれば、欧米での発想は「個」の発想といえる。
何か問題が起こる場合というのは過去を振り返ってみると、それぞれの発想の違いにあることが多い。相手が「場」の発想でクレームを入れているのに、「個」の発想で対応したり、その逆だったり。日本は「場」の発想で、海外では「個」の発想というほど単純ではないと思う。リッツカールトンのクレドのように日本式の「場」の発想に近い行動規範を採用している外資系企業もある。そう考えると、それぞれの状況で「場」の発想が求められているのか?「個」の発想が求められているのか?を把握し、どちらにも対応できるように体を割っておくというのが個人レベルとしてのコミュニケーション力をあげるときに必要となってくるように感じた。
どちらの発想が求められているかを把握する時に、その場所で求められているコミュニケーションの役割を考えるとわかりやすいと思う。意思や思いをできるだけ正確に伝える手段なのか、それとも良好な関係を保つための手段なのかということである。
欧米式のコミュニケーションスタイルを学ぶ本や勉強会、講習などビジネスマンを中心にはやっており、子供の時からディベートを学ばせることも行われているが、著者は、ほとんどの日本人は、小さい頃に親から自己主張を抑えるようにしつけられた後であるため、なんだかちぐはぐになっていると危惧している。察する力の低下による世代間のコミュニケーションギャップにも触れられている。
言葉に表現されたことがすべてという欧米式と、表現されないものがまずあって、その全体のほんの一部分が音声となったものが言葉による表現であるとする日本式。その前提を押さえておかないといけないなあと再認識した。
この欧米式のデメリットとして、書かれたもの、言われたことしか理解できない、いわゆるマニュアル人間が多くなっているという指摘がある。お互いに共通の前提がないと問題が発生するという典型例かと思う。やはり、「察し合い」というのは、日本式のコミュニケーションをお互いの共通の基盤としていないと成り立たないものであり、今後の日本では減っていくのかなと残念に思った。
著者は、そういう意味ではかなり手厳しく書いている。

「察し合い」が国際的な折衝の場では通用しないことを理解していても、日本人の間では未だに通用するように思っている人もいるようだ。しかし、それは違う。もはや共通の基盤は、失われていると考えた方がよいだろう。

欧米式の負の面として、自分は一貫した自分でなければならないという一貫性への欲求が強すぎることによって抑圧が生じ、多重人格が大量に発生している。本書の著者は心理学博士であるが、北米では日本より極端にそのような症例が多いとのこと。
グローバル化する現代の中で日本の文化的側面としてのコミュニケーションをもう一度考えてみたいと思った本であった。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です