私の犬まで愛してほしい – 佐藤 正午 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 3 分

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書評・レビュー・感想

年頃の妻帯者と独身者が会話をすると、話が逸れて行く方向は決まっている。妻子持ちは独り者の女性関係を勘ぐり、自分は女房に吸い上げられる金の使い道を指図したがる。
水商売グループの女の子たちは、おしなべて話し上手である。話が筋道立っていてわかりやすいというのでは決してないが、細かい場面の描写がうまい。たとえば、恋人と別れるきっかけになった小さな事件。その事件のあらましは僕にとって小説の材料になる。しかし彼女達はそれ以上のものを語りたがる。そのとき男のネクタイがどう曲がっていて笑顔がどうだったとか、自分は、こんな気持ちでこんなふうで次にこう変わったとか。つまり小説の材料を僕に料理させてくれない。彼女たちのおしゃべり自体が小説に似すぎているのである。
僕は佐世保の片隅に住んでいる。この街は人口は目立って増えも減りもしない。不景気風は吹きつづけている。図書館はいつまでたっても貧相で、川の水はあいかわらず汚れ、競輪場の車券売り場の女たちは要領が悪く、誰もが不満を持っている。誰もが我慢している。若い女たちは化粧の仕方だけ心得ている。若い男たちは車の磨き方だけを知っている。その他の若者たちは街を見限っていく。活気がなく、うるおいがない。
根拠のない自信に満ちた中年と、投げた若者と、降りた老人であふれている。むろん、あなたはそのうちどれでもないし、ぼくもちがう、と思いたい。若い女性が化粧をしてきれいになるのは結構なことだ。その分頭が空っぽなら、騙しやすくてむしろ都合がいいようなものだ。若い男性が車を走らせるのは見ていて気持ちがいい。
新しい佐世保橋を突っ走ればきっと似合うだろうし、死んだような街が少しはにぎやかになる。街を見限った若者たちはなるべくなら戻ってこない方がいい。みんなで大切にしている佐世保弁が、東京や関西のなまりで乱れてしまう。中年は胴間声をはりあげ仕事に精を出し、会社の経費でのみ、カラオケを唄うといい。若者はディスコとホテルと補導員の間で右往左往すればいいし、老人はゲートボール場と病院へ通えばいい。そして僕は、そのうちどれでもない、と思いたい僕はため息をついて、佐世保の片隅でひっそりと小説をかく。
佐藤正午のエッセイ集である。佐藤正午の小説を読んでいない人は内容がよくわからないかもしれない。小説の引用が非常の多いから。題名は、昔英語の授業で習ったらしい「私を愛してくれるなら、私の犬まで愛してください」からぱくって、小説を読んでくれるなら、エッセイもよろしく!という意味らしい。著者は、現在も佐世保在住なので佐世保についていろいろ書いてあったが、現在、私が住んでいる(もうすぐ出て行くが。)街と非常に似た環境にある。競輪場があり、祭りがあり、若者、中年、老人云々・・・
まあ私の私が育った街を客観的に評するなら、ほぼ同内容となるであろう。しかし、著者と違って街自体への愛着はないこともないが、この街にいる友人への愛着に比べれば無いに等しい。
(過去ブログからの転載シリーズ)

本エントリーは、過去に運営していたブログから転載したものであり、一部書き直しならびに追記をしてあります。

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