「わかる」とはどういうことか – 山鳥 重 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 10 分

心に思い浮かべることのできるすべての現象を心像といいます。地球の自転は、事実であって、太陽が動くのは心像です。事実とは、自分という心がなくても生起し、存在し続ける客観的現象です。心像とは、心がとらえる主観的現象です。
心像の獲得は、知覚から始まります。知覚とは、「違いがわかる」ことです。知覚を十分に働かせるためには、「注意」という仕掛けが必要です。注意を集中すると、その部分の知覚の力が強くなります。注意を駆り立てるものは、好奇心です。好奇心が注意を持続する。心は、好奇心(おおまかな心の傾向)→注意(具体的な方向付け)→知覚(正確な区別)の流れで働きます。
心像は経験を通じて形成されます。この心像が人間の思考単位となっています。客観事実はそのままでは人間の手には負えません。人間は、世界を「心像形成」とうやり方で読みとっているのです。心像という形に再構築しているのです。
人間は外界を見ているだけではありません。心の中も見ています。心がため込んだ心像を見ています。その典型が、夢という現象です。夢では訳のわからない出来事が起こります。翼もないのに空を飛んだり、壁があるのに通り抜けたり、怪物に襲いかけられたり。ため込んでいる心像が勝手に心の舞台に躍り出て、勝手に遊んでいるのです。
心像には、五感に入ってくる心像と心がため込んでいる心像の2種類があります。前者を知覚心像、後者を記憶心像と呼びます。知覚は周りに生起する現象(客観世界の出来事)を取り込み、その現象を心像という形式に再構築します。ここは大事な点です。
事実がそのまま、たとえばよく磨き抜かれた鏡に映るように、心に映し出されるということはないのです。心は事実をいったん五感に分解して脳に取り込み、神経系で処理できる部分だけをもう一度組み立て直します。その組み立て直されたもののうち、意識化されるものが「知覚心像」です。この「知覚心像」を「記憶心像」と照らし合わせて、認知するのです。外の世界で何も起こってないのに、心に現れる心像があります。これはすべて記憶心像です。夢の場合と同じです。
名前をつけるということは、記憶心像に音声記号を貼り付ける働きです。記憶心像はそれだけでは掴まえがたいところがあります。名前にはこの掴まえがたい記憶心像を掴まえる働きがあります。それ自体では不安定ですが、名前によって心像が安定するのです。たとえば、「め」という音を聞くと、日本人は眼の記憶心像を引き出すことができます。あるいは、芽の記憶心像を引き出します。似たような音ですが、「ぺ」でも「べ」でも眼や芽を思い浮かべることはありません。め=眼、あるいは、め=芽という結びつきは、人間が取り決めた約束事です。もともとはこのイコールの両側は何の関係もないのですが、長い歴史の中でそう決まっているのです。しかもこれは日本人だけに通用する約束事です。だから記号です。このような記号という道具が使えるようになると、それまでは自分だけの現象であった記憶心像を他人とやりとりできるようになります。言語音は記号です。
日本語120の基本的な音はそれ自体は、音ですから何の意味もありませんが、そのそれぞれの形に様々なイメージを代表させているわけです。約束事である記号音の種類が日本語と英語では違っているので日本の記号では英語を聞き取ることはできません。持っている記憶心像が違うのです。言葉を手に入れたことで、人間はすべての心理現象を記号の変換(言語化)して、他人と交流するという大変な能力を手に入れたのです。
現代の極端な現象として記号だけが覚え込まれ、その記号が立ち上がるきっかけとなったはずの心像のほうは曖昧なままという事態が発生しています。IT革命などもそうです。記号だけは覚えていますが、その相手方であるはずの記憶心像は曖昧なままです。このような言葉の使われ方は心にとって非常に危険です。心の整理に役立つはずの言葉が、むしろ心を混乱させます。言葉の本質は、任意の記号と一定の記憶心像の結びつきですから、記号の相手方の記憶心像が曖昧なままだと、記号は記号として覚え込まれるだけになり、意味のない状態が生じます。記号自体は無意味です。記号だけみても、聞いても、何かが理解できるわけではありません。記号が自分の中の記憶心像と響きあわないと、意味は出現しないのです。
記憶には、呼び出しやすい記憶と呼び出しにくい記憶の2種類があります。呼び出しやすい記憶とは、心像化できる記憶です。多くは絵や言葉に表現できます。つまり、仲間に伝えることができます。陳述性記憶とも呼ばれます。この記憶も出来事の記憶と意味の記憶の2種類に分けることができます。呼び出しにくい記憶とは、手や身体が覚えている記憶です。どうやるかははっきり心像化できないが、やってみるとできるというタイプです。手続き記憶とも呼ばれます。出来事の記憶は、1回だけ起こって二度と起きないタイプです。意味の記憶は、何度も繰り返し経験することで少しずつ作り上げていく記憶です。

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書評・レビュー・感想

・全体像がわかる

見当を付けるとは、扱っている問題を一度手元から離して、遠い距離から眺め、ほかの問題とのかかわりがどうなっているのかという大枠を知ることです。全体像を掴むことです。英語では、パースペクティブといいます。部分的な狭い知識だけでは、全体がどうなっているか判断できません。大きな立場から見ると、それまで見えていなかったことが見え、わからないこともわかるようになります。

・整理するとわかる

わかるというのは心のありようです。自分の分類原理をすべてに適用することです。すっきり分類できると人間はわかったと感じます。いままで整理のつかなかったものがある見方で整理されたわけです。科学はある意味では分類の学問です。わからない現象はすべて自分の原理にのっとって分類することでわかったと感じるのです物質についての理解で、三相の理解が本当で、二相の理解が迷信だということはないのです。前者が科学的理解であり、後者が思想的理解です。なんらかの分類基準で目の前の現象を分類できれば、現象が整理できるだけでなく、心も整理されます。心が整理されるとすっきりした感じになります。「わかった」と感じられるのです。

・筋が通るとわかる

「風が吹けば桶屋がもうかる」にあるように、説明がうまくつながれば「わかった」と感じれらるという心の動きがあります。人類の多くは、ダーウィンのようにわかろうとはせず、神様という自分たちより圧倒的に賢い存在があるはずだと信じて、わからない部分の穴埋めに使っているわけです。進化論も神様論もなぜ人間がここにいるかを説明しています。人間は説明できれば、わかったと感じるのです。話が時間的につながれば、わかったと思うのです。自分の周囲の現象を理解するには、「分類」によるわかり方が用いられ、自分と過去、現在の現象と過去の現象の時間的つながりを理解するには、「説明」によるわかり方が用いられているのです。

・空間関係がわかる
・仕組みがわかる
・規則に合えばわかる
・どんなときにわかったと思うのか
・直感的にわかる

「わかった」という体験は、経験のひとつの形式であって、事実とか真実を知るということとは必ずしも同じではありません。「わかった」からといって、それが事実であるかどうかは、実はわからないのです。「わかった」と感じるのです。「納得する」という言葉があります。「わかる」の別表現です。そのほかに「合点がいく」「腑に落ちる」という別表現もあります。

・まとまることでわかる

わかるとは、自分のものにすることです。長々と文に表現されているものが自分の概念(心像)としてひとつのイメージにまとめられることです。そうなると、今度はそのわかったことを自分の言葉で表すことができます。小説家もお坊さんも、自分の持っている心像を、相手の伝わるような言葉に解きほぐしてくれているのです。その文を読む読者は、その解きほぐされたものを、もう一度、自分の心の中で、解きほぐされる前の心像へまとめなおさなければなりません。うまくまとめられると、「わかった」という感情が生じるのです。

・ルールを発見することでわかる
・置き換えることでわかる

あらゆる意味は置き換えによって、その意味をいっそうはっきりさせることができます。たとえ話による理解はその典型です。たとえに使われる具体的なイメージが意味理解を助けてくれるのです。道徳というのは大変わかりにくいものです。人にこれこれしてはいけない、こうしなければならないと教えられてもその正しさはわかったつもりでも、なかなか具体的にはわからないものです。その難しさをたとえ話がわからせてくれます。

・わかるためには何が必要か

経験的なことですが、わかったことは図にできます。中途半端にしかわかっていないことはなかなか図になりません。まるでわかっていないことは、とうてい形になりません。わからない場合はまず図を作ってみることです。図というのは頭で同時に浮かべきれないことの手助けをしてくれます。わかる点とわからない点がはっきりしてきます。自分でわかっているのかわからないのかがわからない時には、言葉にしてみたり、図にしてみたりすればいいのです。そうすれば、わかったつもりでいたことが、実は何もわかっていないことがよくわかります。わかっていないところがはっきりすれば、それはとりもなおさず、わかるために第一歩になります。

・より大きく深くわかるために

わかり方には水準があります。つきつめると、わかり方は2つのパターンにまとめることができます。答えが自分の頭の中に用意できるタイプのわかり方と答えが自分の外にしか存在しないタイプのわかり方です。前者は、学校で教わるタイプの理解です。後者は、自分で仮説を立ててゆくしかないタイプの理解です。われわれは、この2つのわかり方を駆使して、社会に立ち向かっています。しかし、行動に本当に必要なのは後者であることは説明の必要もないでしょう。社会で生きていくということは、その時その時、新しい発見、新しい仮説を必要とします。

「わかる」という言葉自体、わかっているつもりでよくわかっていないものです。その「わかる」についてかかれた本であります。わかるためには考えなくてはなりません。世の中には、○○をわかるための本や○○を考えた本は数多くありますが、○○をわかるということはどういうことか考えた本や○○を考えるということはどういうことかを考える本は非常に希少です。
本書はその希少に属する部類ですが、わかりやすく「わかる」という概念についてかかれてあります。個人的には(「わかった」という体験は、経験のひとつの形式であって、事実とか真実を知るということとは必ずしも同じではありません。「わかった」からといって、それが事実であるかどうかは、実はわからないのです。)という箇所に非常に考えさせられました。
それと内容には言語についての理解も深められるように説明が施されています。英語などの外国語を学ぶ人にもお勧めです。日本語がわかるのに外国語がなぜわからないか、なぜ外国語が身に付かないのかを世の中にあふれる英語本や語学本とは違った視点で捉え、説明されています。私は、この内容に納得したのですが、本著が示すように「わかった」ことが事実や真実を知るということとは必ずしも同じでないということを肝に銘じる必要がありますね。
(過去ブログからの転載シリーズ)

本エントリーは、過去に運営していたブログから転載したものであり、一部書き直しならびに追記をしてあります。

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