女は何を欲望するか? – 内田 樹 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 4 分

私たちは他者の理解と承認を求めて、しばしば自分について語る。
正直に、かつ確信を込めて、「私は・・・である」と断定することもある。
しかし、経験的に知られているように、そのような自己規定するときに、私の側にはつねに何らかの下心が働いている。
「そのような人間」として他者から「承認」を受けたいという欲望が私の語りをコントロールしている。
例えば、
私が「私は頭の悪い人間です」というとき「私は自分の知的能力について適切な評価ができる程度には知的な人間です」というメッセージを私は同時に発信している。
「わたしは邪悪な人間です」と断言するときは、「わたしは自分の道徳性を過大評価して他者に暴力をふるうほど邪悪な人間ではありません」というメッセージを同時に発信している。
私たちは何かをいいながら、同時に「それをいうことによって言いたい別のこと」をも語っている。
だから、私たちはコミュニケーションがうまくゆかなくなると、しばしばいらだって、「あなたは、そういうことによって、何が言いたいのか?」という問いを相手に向けることになる。ラカンはこれを「子供の問い」となずけた。
この「子供の問い」に即答できる人はまずいない。なぜなら、ほとんどの人は自分が何を言うためにあることを言っているのか意識することがないからである。私たちが他者に向けて語るとき、どれほど厳密に、どれほど論理的に、どれほど仔細に語ったとしても、語り終えたあと、「で、ほんとうは何がいいたいの?」という「子供の問い」の前に絶句するリスクから逃れられない。
これは「語りつつある私」───ラカンはこれを「主体」と呼ぶ────と私の語りの中に登場する「私」───ラカンはこれを「私」と呼ぶ────の間に超えることのできない乖離があることの当然の帰結なのである。人間が自己意識をもつ生物である限り、誰一人この「根源的疎外」の宿命を免れることはできない。
単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である。
(それは「プロパガンダ」にすぎない)
矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を変えるたびにそのつど別の読み筋が見出せるような物語は「質の高い物語」である。
「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。
その代わり「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。
私たちは「問題」をめぐる終わりない対話、終わりない思惑へと誘われる。

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書評・レビュー・感想

個人的ですが、要再読。
質の高い物語論は、私の好きな第三舞台の劇作家でもある鴻上尚史がいっている「多重層理論」に非常に似ている議論である。
この多重層理論とは、例えば、山があって、知識や経験が浅い分だけ、山の上のほうをスパッと真横にきった面積の分だけ、物語を楽しめると仮定している。スパッと真横にきって、その切り口を見ると、小さい楕円形になる。その面積の分だけ、楽しめることにするわけです。知識や人生経験は深くなると、味わえる楕円形の面積はより広がる。一番大切なのは、ある程度の知識や人生経験がないと理解できないのではなく、どのレベルでも、山を真横からきることが出来て、それなりに知識や人生経験で
も、それなりに楽しめるということであり、たった一つの解釈だけしか楽しめないのではなく、解釈が多重層に存在している。簡単にいうとそういう内容でした。
このあたりは非常にリンクしているような気がしました。本書は映画の「エイリアン」を様々な角度から分析して批評しています。ん〜とうなってしまいました。読み終えて、私は今まで映画をなんとぼーっとみていたのだろうと考えさせられました。かといって著者のような分析ができるわけではないのですが・・・。
(過去ブログからの転載シリーズ)

本エントリーは、過去に運営していたブログから転載したものであり、一部書き直しならびに追記をしてあります。

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