無責任の構造 – 岡本 浩一 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 12 分

無責任の構造は、人間社会が古くからもつ病巣の一つである。1つ1つの社会的無責任には、その無責任に内部で声をあげようとして、様様な形で圧殺されてきた多くの声なき声がある。良心のあえぎがある。無責任の構造は、その構造を容認する人間を飼いならす。飼いならされることを拒否した人は、自己の良心を鈍磨させて沈黙したりあるいは、職場を去ることを余儀なくされたりして、システムから除外されていく。そのような形で、無責任の構造は静かに増殖し、巨大化する。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

書評・レビュー・感想

・「なぜ集団に対する無責任の構造への問題提起が困難なのか?」

要因の1つとして、「同調」という社会心理的現象がある。私たち個人は、自分が思っている以上に同調的であり、世間全般はその同調を規範としている。特に日本社会は同調の規範度が高いと考えられる。だから私たちがなにかの問題提起の必要を感じるとき、それが正しいことであったとしても、非同調的な行動であるがゆえに、罪悪感のような感情に襲われることになる。これが問題提起のハードルを高くしている。
2つ目の要因として、「服従」という心理メカニズムがある。対人関係や職権などのもとで発生する強制力を、社会心理学では、社会的圧力という。社会的圧力のもとで不本意な行動をさせられるのが、服従である。服従は、社会的圧力があるという点で同調とは異なり、自発的に生じる行動ではない、服従している本人はには、自分の意志に反した行動であるという自覚がある。この服従によって問題提起が困難になっている。
3つ目の要因として「価値観の内面化」という現象がある。同調は、モデルがあって起こる現象であり、服従は、強制力の源泉があって起こる現象である。内面化は、当該の行動の背景となる価値観が習得されたため、モデルも、強制力もなしに、行動が継続される現象である。無責任の構造が維持されているとき、その維持にかかわっている人たちの意見は、仕方なくの人から積極的な人まで広い範囲に分布している。その中ではじめは社会的制裁を避けるという動機で消極的だった人が、次第にその構造の維持に積極的に加担するようになる人に変貌することがある。このようなことは、それぞれの価値観が内面化しはじめることで起る。この価値観の内面化によって無責任の構造を維持する人が増加し、問題提起が困難になる。

・「ではどうやって同調による困難を克服すればよいのか?」

必要なことは、まず、自分が直面している課題において自分の意見が正しいのかどうかをよく吟味することである。自分が問題提起しようとしていることの基準となっているのは、法律なのか、業界の規制なのか、社内ルールなのか、あるいは倫理や常識なのか、あるいは慣例なのか、などの規範の水準をまず、きちんと整理して考えることが大切である。
次に、そのような規範に基づいた自分の判断と、葛藤している現状を維持している規範が、何なのかも良く判断する必要がある。2つの規範同士であれば、規範の優劣によってことがらの是非が決まってくることが多い。難しいのは、片方の規範が社内規則で、もう片方が倫理などの規範の場合である。これが結局、良識の問題になるわけである。

・「ではどうやって服従による困難を克服すればよいのか?」

職業的な服従を克服することは、大変なことである。しかし、それが必要と考えられる場合、次のことを確認し、自分の思考をじっくり組み上げていくことが必要であろう。まず、自分が不本意に服従していると感じる状況がある場合には、自分に対する強制力が空いてに備わっているからおこっているのかどうかを確認する。自分が服従を拒否した場合、そのようなことが起こり得るかをまず見つめることが必要である。
職権上の懲戒などのリスクがなく、じつはみんなと食べる昼食がまずくなる程度のコストしかないのに、その程度のコストが自分の心の中で過大視されてしまっていることがある。自分の良心を重んじ、無責任の構造に陥らないためには、自分が圧力を感じるたびに、それが本当の圧力かどうかをまず確認し明確化する必要がある。そして、みんなと食べる昼食がまずくなるという程度の社会的制裁が重くて、やはり踏み切れないという人は、自分が良心に基づいて何かを考えたり、専門の立場を生かして、職業生活をしていこうということが無理な人間だと自覚することも必要である。
それに伴う痛みが心に一生ついてまわってもそれはそれで仕方ない。良心などという重い荷物はいまの自分には背負いきれないとはっきり諦めることだ。この種の領域では、中途半端は大怪我のもとである。相手に社会的圧力の基盤があるときは、深刻な事態である。多くは、その社会的圧力の基盤をもっている相手、あるいは、その相手より上位の相手と直接のコミュニケーションが必要となる。通常、職場にまつわる判断であり、自分の問題提起が良心を賭けてよいほどの妥当性があるときは、問題提起の真意は、本来、相手にとっても利になる事柄であるはずだ。であるから、それを前提に、説得的なコミュニケーションをするのが基本的な考え方だろう。
現行の措置を続けることのリスクなどを解き、問題を「是か非か」の問題ではなく、「いつ、どのような方法で」という方法論上の問題に置き換えて議論するのが可能なはずである。長期的な利益の立場にたてば、自分の考えに理があることをわからせるよう努力するのである。それがどうしても実らないとき、あるいは、実らぬ見通しのときは、職場を辞すことまで視野に入れた考慮が必要となろう。

・「ではどうやって価値観の内面化による困難を克服すればよいのか?」

まず価値観の内面化が起るプロセスを理解する必要がある。価値観の内面化の主要な要素として、「認知的不協和」がある。これは同一個人の中にある認知の1つが「X」を含意し、別の認知が「非X」を含意するとき、2つの認知は不協和になるということである。
そして、認知的不協和は不快な状態なので、認知的不協和をもつ個人は、その2つの認知を調整して、認知的不協和をなんとか小さくしようと努力する。認知的不協和を低減するためには、それに見合う一定の合理化が必要である。その合理化には、外的合理化と内的合理化がある。
「外的合理化」が「報酬」、「内的合理化」が「価値観の内面化」である。認知的不協和を低減するのに、報酬が高く、外的合理化が大きいと、それだけで十分なため内的合理化が行われる必要性が低くなる。逆に報酬が低く、外的合理化が小さいと、外的合理化だけでは全体の合理化ができないので、内的合理化が必要となり、その結果、価値観の内面化が起るようになるのである。
つまり、報酬が低いほうが、その価値観の内面化が進むのである。いわば、報酬が低いほうが、自己洗脳のプロセスがよく働くのである。

・認知的複雑性

認知的複雑性とは、複雑な事象の認知能力である。たとえるなら、交響曲を聞いているとき、メロディーを聞きながらも他の副旋律や和声にも気が付き、楽しむことができるのが認知的複雑性が高い人である。認知的複雑性の低い人の場合は、メロディだけを聞いていることになる。
認知的複雑性の低い人は、対人認知において、自分自身の好き嫌いが基調となる。自分の嫌いな人の知性が高いことや、自分の好きな人の勤勉さが低いというような場合に、それに気がつきにくく、嫌いな人を低く、好きな人を全般的に高く偏って認知する傾向がある。対人認知においてメロディとでもいうべき評価次元(好き嫌い)に強くいぞんした単純構造の認知をするからである。
認知的複雑性の低い人は、複雑な情報を複雑なまま処理することが苦手であるため、教条や権威など単純で明瞭な概念によって自分の認知をわりきる傾向が強くでるので、権威主義的になりやすいのだといわれている。
認知の個人差としてあげられているもう1つの要素に「あいまいさへの耐性」というものがある。あいまいさへの耐性が低い人は、複雑な事象をあいまいなまま認知することが苦手である。典型的には、ある行為が善か悪か、または、ある行為が職務上の義務違反かそうでないかというような判断にあいまいさがはいっていることに耐えられない。そのため二分法的に強く割り切る認知方略をとることになりやすい。よく人をほめるのに、「竹をわったような性格」という表現が用いられるが、本書の立場からは、これは誉められたものではない。竹をわったような性格とは、オール・オア・ナッシングの二分法的発想をする性格ということで、それは、認知的分化度の低い認知傾向にすぎないからである。
そういう人を自分にとって裏がなくてつきあいやすいとすれば、それは、自分も認知的複雑性が低いからで、認知的複雑性が高い人からみれば、そのような人は、感情のきめの粗いつまらない人で、多面的な判断のできない人ということになる。

・「責任を遂行するための個人戦略は?」

自分の認知スタイルにおいて認知的複雑性を高く維持することである。認知的複雑性とは、ものごとの認知において、他次元の認知要素を複合して認知する傾向の個人差である。人間は、ものごとをありのまま認知しているわけではない。ものごとから、認知するべき要素を抽出して認知しているのである。その認知に使用する要素の軸として、多数の軸を使用するかどうかについて個人差があるわけである。
自分自身が認知的複雑性が高くなければ、ほとんどの人が賛成しているようにみえる提案に反対するという行動に伴う心理的ストレスに耐え切れない。認知的複雑性は、仕事の領域などより広い範囲で一般的にみられる個人差であるから、仕事に関連することであろうとなかろうと、ふだんからそれを高めるような努力を内面でしていなければならないのである。
認知的複雑性を高く維持するために、いちばん最初にしなければならないことは、他者に対する好き嫌いの感情に少し距離を置くことである。能力や仕事の割り当てなどを好き嫌いに直結させないことが、認知的複雑性を高く維持する認知的努力のイロハである。認知的複雑性を高く維持するためには、まず、日ごろから関心領域を広くしておくことが必要である。
新聞や雑誌に丹念に目を通し、新刊書も定期的にチェックすべきである。自分の職業以外の領域のものを読む行為そのものが認知的複雑性を高く維持する原動力の1つである。「あっ、これは自分には関係がない」といって読まないという思考スタイルそのものが認知的複雑性の低い行動だと考えてよい。
広い関心領域の読書は、思考能力の柔軟性を高める。それが、職業領域において、他者が見落としている問題点をみつける能力や、自分の意見の妥当性を慎重に見極める能力に通じる。ホワイトカラーの仕事にとって、広範囲の読書は、球技選手にとっての毎日の走りこみのようなものだと考えるべきである。
野球やバスケの選手でも「走りこみが球技の能力のどこに直接+になるのだろうか」と疑問に思うことがかなりあるそうである。けれども、走りこみを維持する選手が、安定してよい成績を残すというのがだいたい一致した意見でもある。ホワイトカラーの場合でも「この読書が自分の仕事のどこに直接役立つのか」と自問すれば、直接そのまま役立つことは少ないということに気づくだろう。けれども、直接は役に立たなくても、思考力の足腰を鍛えるという形で、長期的にはもっとも大切な素養の一つになるということを銘記したい。

・問題提起がどうしても必要な場合の方法論
   ステージ(1)間接的言及ステージ
   ステージ(2)事後質問ステージ
   ステージ(3)協議中質問ステージ
   ステージ(4)問題の正式提起ステージ
現実は複雑である。安易な善悪や是非の議論を受け付けないほど複雑である。その複雑性に屈服し、経済性、利益優先、効率追及、集団主義などの単線型の教条主義を便宜的な原則とすることになり、それが便法にすぎないということを忘れ、便法への懐疑を圧殺するようになったのが現代である。
それが現代の無責任の構造の底流である。しかし、現実が複雑で単純な原則で割り切れないからこそ、良心的な判断、良心的な職業意識が求められるのだと思う。いま、日本の企業では驚くほど多様な業種でそれぞれ特有のモラルハザードが明らかになっている。
モラルハザードは、1人1人が自分の良心の声に耳をふさぐ行動と、それを余儀なくする社会的慣習や企業土壌によって引き起こされる。本書では無責任の構造への知的理解と対処に重きをおきかかれている。無責任の構造の知的理解が心理的萎縮を抑え、良心の声が耳に入りやすい状態にするのではないかと思う。
本書では良心の問題に直接ふれていない、著者は、そのことについて、良心の問題こそ、どのような書も論じることの許されない問題だと考えているとあとがきに書いてある。が私は良心こそ論じられていいと思っている。内容としては興味深く非常にためになった。読んで失敗したと思うことはまあないでしょう。
(過去ブログからの転載シリーズ)

本エントリーは、過去に運営していたブログから転載したものであり、一部書き直しならびに追記をしてあります。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です