読書力 – 斎藤 孝 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 7 分

本を読むことの意味は何?案外答えにくい問いに、「読書によって…の力がつく」という形で考え、コミュニケーションの力、人間を理解する力との関わりを示します。自分をつくり、鍛え、広げることが、読書とどう結びついているかを述べて、あらためて読書の本質を見つめます。心に残るフレーズ、工夫の手がかりも満載です。

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書評・レビュー・感想

・本を読んだという基準

よく「あの本読んだことある」という言い方がされる。本の理解度はさして問われない。自分なりに読んだという基準で普通は使われている。しかし、基準としては、「要約を言えること」が本を読んだか読んでいないかの基準になると考える。

・本はなぜ読まなければならないのか?

自分をつくる最良の方法だからだ。読書の幅が狭いと、一つのものを絶対視するようになる。教養があるというのは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということである。目の前の一つの神秘にすべて心を奪われて、冷静な判断ができなくなる者は、知性や教養があるとはいえない。

・何かを知らないということは、恥である。

以前は、基本的な本を読んでいないことは恥ずかしいという意識が、学生同士のテンションを高くしていた。しかし、現在の日本では、何かを知らないということは、恥にならなくなってきている。本当は恥と感じて勉強をするほうがお互いに伸びるのだが、「知らなくたって別にいいじゃない」という安易な方向に皆が向かう事で総合的なテンションが落ちている。友人と話していて知らない本の話が当たり前のように出てきたときに、当然知っているかのように話を合わせておいて、あとであわてて読むというけなげな努力をする。そうしていると、その集団の中で一番高いものに皆が合わせるようになっていく。それぞれが無理をして気を張り合っているので、読書は加速する。

・読書により「1人になる」時間の楽しさを知る。

読書は、一定の精神の緊張を伴う。この適度な緊張感が充実感を生む。人間の総合的な成長は、優れた人間との対話を通じて育まれる。身の回りに優れた人がいるとは限らない。しかし、本ならば、現在生きていない人でも優れた人との話を聞くことができる。優れた人との出会いが、向上心を刺激し、人間性を高めてくれる。読書には、自分から積極的に意味を理解しようとする姿勢がなければならない。読書の習慣は、人に対して積極的に向かう構えを培うものだ。

・読書により「自分と向き合う」時間の厳しさを知る。

「自分は本当に何をしたいのか」、「自分は向上しているのか」といった問いを自分自身に向けるのは、時につらいことだ。自分自身が何者であるかを内側に向かって追究していくだけでは、自己を培うことは難しい。タマネギの皮をはぐように、いくらはいでも何もなかったという気持ちに襲われることもある。読書の場合、優れた相手との出会いがあり、細かな思考内容までが自分の内側に入ってくる。

・読書により「言葉」を知る。

あまりに当たり前のことかもしれないが、考えることは、言葉で行う行為である。一人で考え事をしているときも、言葉で基本的に考えている。言葉の種類が少なければ、自然と思考は粗雑にならざるを得ない。考えるということを支えているのは、言葉の豊富さである。話し言葉の種類は限られている。日常を過ごすだけならそれほど難しい言葉は必要ない。しかし、その日常の話し言葉だけで思考しようとすれば、どうしても、思考自体が単純になってしまう。逆にいろいろな言葉をしっていることによって、感情や思考自体が複雑で緻密なものになっていく。これが書き言葉の効用である。書き言葉には、話し言葉にはないヴァリエーションがある。言葉をたくさん知るためには、読書は最良の方法である。なぜ読書をした方がいいのかという問いに対して「言葉を多く知ることができるからだ」という答えは、シンプルなようだがまっとうな答えだ。

・読書により「本の連鎖」が生まれる。

本は、本の連鎖を生む。一冊読むと次に読みたくなる本が出てくる。それが読書のおもしろさだ。自分が尊敬する著者がいいと薦めている本は、読みたくなるものだ。まったく縁もゆかりもない本を読むのはつらい。一人の著者がきっかけで、本の網の目がどんどん広がっていく。関心も微妙にずれた広がりを持っていく。これが世界観の形成に役立つ。

・読書により「体験」に深みがでる。

実体験の前に読書をしていることは、体験の質を低くするどころか高くするものだと考えている。先入観なしにものごとに向かうといえば聞こえはいいが、あまりにも知識のない状態では物事の本質をまったく見逃してしまう事の方が、むしろ多い。音楽や絵画あるいは自然を味わう時でさえも、読書は有効に使うことができる。たとえば、絵画に関する知識もなく、絵を全くの素手で向かうとすれば、何をどう味わえばいいのかがわからないというのが普通の人間だろう。センスだけですべてを把握しえるほど、芸術の歴史は浅くない。芸術家自身が歴史を背負って仕事をしている以上、その心の意味を読書を通じて理解しておくことは、鑑賞する上でプラスに働く。

・読書により「摩擦を力に変える」ことを知る。

本を読んでいると、著者に直接反論できるわけではない。少し自分とは意見や感性が違うなと思うことももちろんある。しかし、直接反論できないので、その気持ちを心にためていく。はっきりとは言葉にして反論できなくとも、その溜めたものはやがて力になっていく。そして、別の本を読んだときに、あのときに感じた違和感はこれだったのかと気づくこともある。読書は、完全に自分と一致した意見を聞くためというよりは、「摩擦を力に変える」ことを練習するための行為である。自分とは違う意見を溜めておくことができる。そうした容量の大きさが身に付いてくると、懐が深く、パワーある知性が鍛えられていく。

・読書により「満足できるわからなさ」を知る。

読書をしているとわからないことに必ずであう。わからなさに耐える必要がない読書の場合、読書力は向上しない。運動トレーニングでいえば、すでにできる力量の6,7割をいくらやっても筋力はつかないのと同じだ。わからなさが筋力でいえば負荷である。「わからないところがあるからつまらない」といって放り投げるのではなく、わからなさをいわば溜めておく構えが重要である。わからない文章がでてきても、そこで放り投げずに耐えて、次の文章に行く。次の文で意味がわかることもあるし、わからないこともある。しかし、それでもわかっていく予感を探るのが大切だ。満足できないただ難解なだけの内容空疎な文章なのか、わからないながらも内容が高度につまっている満足できるわからなさという種類の文章なのか。これを見極めることが読書力の向上にとって鍵になる。「やさしく書けないのは、著者が本当にわかっていないからだ」という聞いた風な論を悪用して、自分の読書力や知識のレベルを上げる努力を怠る者も多い。難しさやわからなさに耐えてそれを克服していく技が、読書で培われるもっとも重量な力なのかもしれない。

なかなか内容のある本を読んだ。読書という物体をいろいろな角度から見て評価している。そしてその効用を説き、必要性を論じている。著者の主張は一環している、それは読書はしなければならないということだ。主張に付随する根拠も明快である。論としての力がある。読書はするべきだという論は当然、私の中にもある。だからこそこの本を読んでみようと思ったのであるが、読んでみて思った事は、まだまだ読書に対する姿勢が甘いということだ。もっと真剣に対峙し、目を耳を傾けなければならない。名著である。
(過去ブログからの転載シリーズ)

本エントリーは、過去に運営していたブログから転載したものであり、一部書き直しならびに追記をしてあります。

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