悪の対話術 – 福田 和也 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 8 分

いかに巧く、かつ効果的に言葉を操るか。 悪口、お世辞の印象的な使い分け、敬語の実質的な役割、挨拶の演出法など、刺激的な方法論を満載。何を話したらいいか分からない現代人の甘えをユーモラスに斬る。

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書評・レビュー・感想

・お世辞について

お世辞にもいろいろなタイプ、種類があります。相手の心臓をつかんで、自分のものにしてしまう必殺アッパーカットのようなお世辞もあれば、ジャブよりも軽い、触れるか触れないかのお世辞もある。そしてそれぞれのお世辞が、なかなかに馬鹿にできない効果があるのです。お世辞というのは、時に軽蔑の表現にもなります。
というよりも、お世辞はあからさまに心にもない賛辞を呈する時に最も優れた軽蔑の表現でありうるのです。お世辞は攻撃のための手段でもあります。なぜお世辞が武器になるのか?それはお世辞を巧妙に投げかけることによって相手を無防備にさせることができる、認識を誤らせることができるからです。何に無防備にさせるか?相手の弱点に対してです。
攻撃目標にとっての致命的ともいえるような弱点についての認識を狂わせるということがお世辞にはできる。例えば、明らかに説明能力が低い上司がいるとする。そして、あなたが彼を排除したいと思っているならば、説明能力についてその上司が抱いている不安を、徹底して払拭するような言動をその上司に対して取るのです。あなたがその上司のコミュニケーション能力を高く評価するような言動をことあるごとに取ったら、どうなるでしょうか。
深い信頼感を表明しつつ、課長のプレゼンは、いつもとても理解しやすい勉強になる等というのです。そうすると、おろかなその上司は、自分に対する不安を、あなたの顔などを思い浮かべながら簡単に打ち消し、それどころか自分に対して殺意をいだいているあなたに強い好意をもつようにすらなるのです。
こうして、あなたがその上司がリカバーする機会をけし、その欠点からミスを犯したときにも、かばうそぶりを見せて反省の機会を与えないのならその上司は早晩そのポストを失うことでしょう。少し観察眼と頭脳は働かせれば、こういう機会がたくさんあることに気がつくでしょう。上滑りになっている人間を、より調子にのらせて破滅においこむなどは、たやすいことです。しかも企みはまったく露見しない。

・悪口について

悪口には、コミュニケーションの道具としてきわめて優れた力があります。悪口を言う場を共有することで人と結びつくことができる。悪口を共有することで、心を許しあったかのような感覚を交わす相手ともつことができる。これこそ悪口の効用です。
しかし、それはきわめて仮初めのもので、また陰湿なものに転化しやすいということさえ認識しておけば、なかなか便利なものです。さらに悪口には信頼感を高めるという効果もあります。悪口をいっておいて信頼というのはおかしいと思われるかもしれませんが、どんな人のことも悪くいわない人があなたを誉めたとしてもあなたはそれを喜べますか?悪口には、お世辞のインフレを止める効果もあるのです。

・会話の不透明性

対話において、何が真実で、何が虚偽なのか、何が直言で、何が諂いなのか、判別することはきわめて難しい。人間関係の難しさに悩む、といった人の悩みのほとんどが、こうした対話の不透明性に発するものです。つまり、真実が虚偽にすりかわり、虚偽が真実に生まれ変わってしまう。コミュニケーションの不透明性に悩んでいるのだと思います。
たしかに、本当のことをいったのに虚偽ととられたり、あるいは虚偽だと疑っていたことが本当だったりという対話関係の中での不確定性はスリルとストレスにとんでいます。言いたいことをいい、聞いたままに信じたい、信じてほしい。そうした無垢への要求は、誰でも持っているでしょう。もしも世の中がそのように単純であればどれほど生きやすいだろうかと。しかし、そのたやすい生き方とは動物の生き方に過ぎません。人間の世界は、動物の生きる、本能に律された世界に比べれば、不透明であり、錯綜しています。けれども考え方を変えれば、こうした不透明さや錯綜こそが、人間世界の膨らみであり、豊かさなのです。

・礼儀について

礼儀はけっして形式的なものではありません。形骸化しており、あってもなくてもよいものでもありません。むしろ内容あるメッセージなどよりもよほど重要であるばかりでなく、雄弁でもあると思います。私などは、若い男性はきちんと挨拶ができて、時間に遅れなければそれだけで何とか生きていけると思っているくらいですから。
なぜ、礼儀が大事なのか?
なぜ、挨拶が大切なのか?
それは、礼儀が、油断をしていないということの証であるからです。人に対して礼儀正しくふるまうということは、相手がどんな人間かわからない、何を考え、何をするつもりで、どんな地位、来歴をもっているかわからない、ということの表明であり、用心なのです。よく、レストランのウェイターなどに、非常に横柄な態度をとったり、乱暴な口をきいたりする人がいますが、こういう人は、さしあたって目下の人間にたいして威張るという点で、道徳的に情けない人間であると同時にそれ以上にきわめてワキが甘い、油断きわまる人だと思います。
ウェイターだろうと、バーテンだろうと、その人がどんな人か解らない。どんな親兄弟をもっているかも、あるいは将来どんな人間になるかもわからないのです。そういう相手に油断してしまうということが、先々どんな災厄を招くかもしれない。実際にはそのような可能性が低いとしてもそういう恐れを抱かない、想像しないということが、きわめて大きな欠落なのです。
日本人にはそういう油断が極めて広範囲に見られるように思います。油断はたしかに気持ちいい、リラックスの出来るものかもしれません。その陰で、多くの大切なものを見逃している。弛緩して生きるということは、いかにも退屈なことです。弛緩を肯定する態度は、着飾る歓びや華やかな場所に出る心地よさ、磨きぬかれたおいしい料理を食べる愉悦などを遠ざけるものです。そういうものはいらないという人もいるでしょうが、私はそういう喜びがないと生きていけない人間ですし、そういう人の方が弛緩している人より幸福であるばかりでなく、人生にたいしてまじめであると思います。
挨拶をすること。
姿勢をただし、相手を眺め、困っていれば手を貸したり、道をあけたりする必要がないかを見届け、適当な話題を選んで話しながら、微笑むなり、真剣な顔をするなり、心配そうな顔をする。こうした行為は、どれ一つとして反射的にできるものではないのです。きわめて深く複雑な判断、自分と相手との関係にたち、同時に自分が相手に何を求めるか、好意か、善意か、敬意か、刺激的な興味か、という計算から行われるべきものなのです。
そう考えてみれば、こんにちわの発声一つ、お辞儀一回にしたって、おろそかに出来ないはずです。あんまり深く頭を下げてはおかしい場合もあれば、会釈では失礼なときがある。そしてそれが極めて自然に行われなければならない。意識的になるということは、礼儀を演出しきるということです。
感じのいい挨拶、あるいは緊張感をみなぎらせた挨拶、媚を含んだ挨拶、といったことをしっかりとした目論見の上でなおかつ自然に見えるようにしなさいということです。演出といってもなかなか難しいというのはそのとおりです。茶道や日本舞踊などの型を意識的に自分の演出として生かすことも大切なのです。いくら型を取り入れても、マニュアルの項目を増やしただけになってしまっては何にもなりません。

先日、宴会がありそこで幹事をした。料理の手配や追加の注文などを店員に伝えることなど自分の中では緊張感をもって注意しているつもりであった。しかし、誰かが間違って呼び鈴を押してしまったらしく店員が注文をとりにきた。私は「どなたかが呼びましたか?」参加者に聞いたが誰も呼んでおらず、「すいません。呼んでませんでした。」と店員に伝えた。その後で参加者の中にいた先輩の1人が「呼んでません」は失礼だ。「間違いました」というべきだと指摘してくれました。その時、自分の余裕のなさは大いに恥じた。
たしかに参加者に向かっては注意を働かせていたが、店員にまで注意、気くばりが足りなかった。これは本書でいう油断以外の何者でもなく、まったく不甲斐ない。しかし、ここで先輩からの指摘がなければ私はそれにすら気付くこともなく今後も油断を撒き散らすところであった。その点において指摘いだいた先輩には感謝したい。書評というよりは私の個人的な体験談になってしまったが、本書はすばらしく読み応えがある。内容のとがり方もすばらしい。
(過去ブログからの転載シリーズ)

本エントリーは、過去に運営していたブログから転載したものであり、一部書き直しならびに追記をしてあります。

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