「他者」がオーバーフローした?

【この記事の所要時間 : 約 3 分

面白い記事を発見。
「他人に迷惑をかけない」という要請は、現代の子ども達の適応に何をもたらすのか
日本人は、子どもに「他人に迷惑をかけない人になって欲しい」と願っているということを他のアジアの地域と比較し数値的に説明し、ルース・ベネデクトが『菊と刀』を書いた1948年と現在2006年における「他人」の定義が変わっていると指摘している。
そして、「他人」の定義が変わった結果、「他人に迷惑をかけない」という子供への要請の中身が変化していると分析し、現代社会病理を拡大させている危険性があることを指摘。
「他人」という概念にどういうものが含まれているか?
ということでしょうね。
内田樹先生は、

内面についていちばん想像力を及ぼすのがむずかしい人、そのひとの思考や経験の様式について、いちばん想像しにくい人のことを私たちは「他者」と呼んでいる。私たちの理解を斥け、共感を絶する絶対的な異邦人のことを「他者」と呼んでいる。そしてそのような「他者」となおコミュニケーションを成り立たせたいと願う根元的な衝動を「愛」と呼んでいる。

とおっしゃっている。
「他人に迷惑をかけない」という子供がとりうる方法として、上記サイトでは、

このような情勢下、「他人に気を遣え」と言われた時、よい子のみんなはどうするのか?思うに、方法は大きくわけて二通りではないだろうか。コミュニケーションのアンテナを徹底的に磨き上げて過剰適応していくか、自己主張の少ない空気のような子どもになって迷惑をかけないか、どちらである。むろん、局面ごとにこの二つを使い分ける、というのもアリかもしれない。

と書いている。
「他人」または「他者」というのはどこまでの範囲を含むのか?
人間性とは、「他者とのコミュニケーションを媒介にして、主体性を基礎づけるもの」であるとエマニュエル・レヴィナスは定義している。
つまり、「コミュニケーションを介して自分の主体性を基礎づけてくれるもの」であればすべて「他者」であると。
そうであればコミュニケーションの場がリアル空間だけでなくデジタル空間にまで広がった現代では「他者」が増えたともいえるのではないだろうか?
コミュニケーションが広がり、人が自分の主体性を基礎付けるために処理すべき他者が増え、処理能力をオーバーフローした結果が、処理能力を高めるためにメモリを増強した人間とダウンしたままの人間に二極化させているのかもしれない。

がんばると迷惑な人 (新潮新書)
太田 肇
新潮社
売り上げランキング: 31,365
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください