木戸孝允―「勤王の志士」の本音と建前 – 一坂 太郎 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 2 分

幕末から明治維新という大きな変化のなかで、木戸孝允がどのように状況を把握し、どのような選択をして、「天皇大権」と呼ばれる立憲君主制への道筋をつけたのか、その生涯を追う。

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書評・レビュー・感想

Wikipedia – 木戸孝允

木戸 孝允(きど たかよし、天保4 年6月26日(1833年8 月11日) – 明治10年(1877年)5 月26日)は、幕末~明治時代初期に活躍した日本の武士・政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。位階勲等は贈従一位勲一等。
長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。幕末期には、桂小五郎(かつら こごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。維新の十傑の1人でもある。

木戸孝允といえば、幕末の長州藩士・桂小五郎としても有名であるが、もともとは20石の藩医の家に生まれている。父親は、眼科と外科を専門にしていた和田昌景である。長男ではあるが、後妻から生まれており、父親が後妻をめとる前に養子を迎えていたため、次男として扱われていた。そのときに近所に住んでいた長州藩士・桂九郎兵衛孝古が病床で家名断絶の恐れがあったため、病中仮養子ということで、桂家の養子となっている。(養子になって十数日で桂九郎兵衛孝古は死去)
桂家の家禄は、150石だったが、末期養子だったため規則により60石召し上げられて90石を相続することになった。桂家の家格は大組(八組・馬周り)であり、藩の実務を担当し、藩主側近を輩出する階級であった。桂家の養子になることにより桂小五郎は長州藩における活躍の舞台を得ている。
桂小五郎が、木戸孝允に名前を改めたのは、1865年9月であり、幕府の追求から逃れるために長州藩によって木戸貫治孝允と改めさせられている。
幕末から維新後の活動は、世の中に知られている通りであり、若くして病魔に倒れている。本人はリウマチと思っていたらしいが、胃癌だったらしい。

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