小説 琉球処分(上) – 大城 立裕 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 4 分

小説 琉球処分(上) (講談社文庫)
大城 立裕
講談社 (2010-08-12)

清国と薩摩藩に両属していた琉球―日本が明治の世となったため、薩摩藩の圧制から逃れられる希望を抱いていた。ところが、明治政府の大久保利通卿が断行した台湾出兵など数々の施策は、琉球を完全に清から切り離し日本に組み入れるための布石であった。琉球と日本との不可思議な交渉が始まったのである。

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書評・レビュー・感想

非常に勉強になった1冊である。琉球処分とは、明治維新後の琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れのことである。著者の大城立裕氏は、沖縄県中城村出身で高校教師を経て琉球政府、引き続き沖縄県庁の職員となり、1967年に『カクテル・パーティー』で芥川賞を受賞した沖縄初の芥川賞作家である。
本書は、「小説琉球処分」として1968年に講談社から発売されているが、1972年の新装版「小説琉球処分」を基としている。沖縄の基地問題をきっかけに2010年8月に文庫化された。
近代化を進める日本と、日本と清国の間でゆれる琉球の姿が描かれている。近代化を進める日本の代表として大久保利通ならびに、琉球処分官の松田道之が登場し、前近代の琉球を代表してさまざまな琉球王府の高官たちならびに、士族が登場する。
沖縄では普天間問題に対する東京の対応を「平成の琉球処分」と受け止めている人もいるらしく、2010年6月4日、衆参両院で内閣総理大臣に指名された官直人総理がその後の記者会見で数日前から琉球処分という本を読んで沖縄の歴史を自分なりに理解を深めているとの発言をしている。その発言がきっかけになり、講談社は文庫化を行ったといわれている。
この小説の基になったのが、琉球処分官・松田道之が関係書類をていねいに編纂した「琉球処分」である。
Wikipedia – 松田道之

鳥取藩家老・鵜殿氏の家臣久保居明の次子として生まれ藩医木下主計にはじめ養われのち松田市太夫の嗣子となる。咸宜園に学ぶ。幕末は尊皇攘夷運動に傾倒し、明治維新後に内務官僚となる。内務大書記官、京都府大参事、内務大丞などを経て1871年、大津県令に就任。1872年、滋賀県令に就任。1875年、琉球処分官として沖縄を視察。以後1879年まで、琉球処分官として 3回沖縄を訪問し、1879年の琉球処分断行に尽力した。同年、東京府知事に就任。1882年、若くして死亡した。

本書の中では、官僚・松田道之が琉球処分でいかに苦労したかが事細かく書かれており、琉球人に対して、憤りと焦燥が日を増すごとに高まっていく様子が描かれている。その苦労とは、蒙昧な琉球を相手にして、その皇化近代化を、一刻も油断ならない世界情勢の中で進める苦労である。
当時の琉球王は、尚泰であり、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王である。
Wikipedia – 尚泰王

元来、琉球は日本と清(中国)に使を送り独自性を保っていたが、他府県の廃藩置県も済んだ翌年の1872年(同治11 年、明治5年)に、日本は強引に尚泰を琉球藩藩王に冊封し、東京に藩邸を与えた。然うして1879年(光緒5 年、明治12年)の琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置されると、藩王の地位を剥奪され居城の首里城も追われ、琉球王国は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、華族として明治政府より東京在住を命じられた。尚泰の次男尚寅、四男尚順は後に沖縄に帰ってきている。
のち華族令の発令に伴って尚泰は侯爵となった。1901 年(明治34年)に59歳で没。墓所は沖縄県那覇市の琉球王家の陵墓・玉陵(たまうどぅん)。なお、尚家は現在も存続している。

尚泰は、自らの運命を、1609年に薩摩藩の島津氏に侵攻され、降伏し、薩摩藩と明の二カ国に両属することになった琉球王国第二尚氏王統第7代の尚寧王になぞらえていたとされる。
小説 琉球処分(下)へつづく。

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