昭和天皇論 – 小林 よしのり (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 4 分

没後、21年を経て、昭和天皇が甦る。失いすぎた我々が今、求めているのは、まさにこの巨人ではなかったか―。大ベストセラー『戦争論』の続編にして『天皇論』の前編であるばかりでなく、日本と日本人を束ね、戦後65年をゼロからやり直すよすがとなる「象徴」を描ききった、小林よしのり畢生の巨編。

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書評・レビュー・感想

昭和というのは本当に激動の時代だったと思う。その昭和という時代に国民の多様な思いを一身に背負って苦悶する偉大な存在が昭和天皇であると著者は冒頭で述べる。個人的には昭和天皇を知ったときにはすでにかなりなお爺さんであった。そのため、小林氏がいうような「あ、そう」という言葉も後付けの知識でしか知らない。玉音放送についてもかの有名な「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」の部分しかしらなかったので、本書にてはじめて全文を読むことができた。
また終戦時の総理大臣であった鈴木貫太郎と、陸軍大臣だった阿南惟幾について多くの頁が使われていて、戦争末期の内閣、政府、軍部、天皇周辺などのやりとりなど非常に勉強になった。多くの人が、「玉音放送」で終戦を知ったはずだが、その玉音放送に至るまでのさまざまな葛藤と苦悩が描かれていて、まだまだ知らない、または知らされていないことが多いこともわかった。
Wikipedia – 鈴木貫太郎

鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、慶応3年12月24日(1868年1 月18日) – 昭和23年(1948年)4 月17日)は、海軍軍人、政治家。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等を歴任し、終戦時の第42代内閣総理大臣。官位は海軍大将、従一位、勲一等功三級、男爵。
和平派の軍人として、強行派勢力を押さえながら終戦を実現した宰相として評価が高い。昭和19年(1944 年)に枢密院議長となり、昭和20年(1945年)4 月内閣総理大臣就任。昭和天皇から“聖断”を引き出し、紛糾する軍部・政府部内の意見をポツダム宣言の受諾で日本降伏の一本に統一し、終戦(玉音放送)と同時に総辞職。

Wikipedia – 阿南惟幾

阿南 惟幾(あなみ これちか、明治20 年(1887 年)2月21日 – 昭和20 年(1945 年)8月15日)は、日本の男性陸軍軍人、陸軍大将、終戦時の陸軍大臣。
陸相・陸軍大将に上り詰めた逸材だが、異才の多い帝国陸軍にあってはごく平均的な軍務官僚で、陸相就任以前は目立ったエピソードも少ない。しかし誠実な人柄で人望が厚く、様々に解釈される後述の終戦時の言動も相まって評伝が数多く著されている。

なんとなく、大日本帝国憲法下の天皇は、なんでも自由に決定できたと思われる方もいるが、実際、大日本帝国憲法第13条には、天皇が開戦と終戦を決定する事が明記されていたが、御前会議での決定は、即時にそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について正式の手続の諮問を経てから正式に決定されるというルールがあった。
最近、山縣有朋を読んだが、そこにも書いてあった1900年に山縣有朋首相の主導で規定された「軍部大臣現役武官制」が軍部暴走の大きな要因になったと言われるが、阿南惟幾陸軍大臣が、この軍部の伝家の宝刀を抜かなかったことが、本土決戦を防いだとも言われている。
戦前、戦中、戦後の昭和天皇をいろいろな角度から詳細に記述しているが、非常に頭のいい方であり、日本でたったひとりしかいない地位で、孤独と苦悩の人生だったのかもしれない。精神的におかしくなってもいいような状態が幾度もありながら、国体を護り、平成へ時代を繋げた力というは改めて評価されていいと思う。将来(数百年以上先)は歴史的に大きく評価される天皇だろう。

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