名将 大谷刑部 – 南原 幹雄 (書評・レビュー・感想)

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名将 大谷刑部 (新潮文庫)
南原 幹雄
新潮社

賎ヶ岳の「七本槍」に乗り遅れ、豊臣政権の下で心ならずも官僚派武将の道を歩んでいた大谷刑部は、将来を嘱望されながら突然病に冒される。秀吉の死後、待っていたのは天下分け目の関ヶ原。大谷刑部は光を失った目で、西軍の一方の旗頭として家康の大軍と勝敗を決する戦場に赴いた。豊臣家への忠節、盟友・石田三成への義、そして自らの武断派への夢を賭けた男の一冊。

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書評・レビュー・感想

大谷刑部の出生は謎に秘められているが、本書では、近江の大谷村の郷士を父に持ち、観音寺に小僧修行に行っていたというストーリーになっている。(法名は千福)。そして、その観音寺で一緒に過ごしたのが、法名・万念こと、のちの石田三成であり、盟友・石田三成との関わりのはじまりとしている。この頃の友情をずっと互いに持ち続け、最終的には関ヶ原の戦いまで友情の核としている。
世間一般では、大谷刑部というのは豊臣政権時代の奉行で、顔を布で覆って関ヶ原の戦いで敗れた武将という印象でしかないかと思う。大筋ではその通りであるが、大谷刑部から見た戦国の姿という意味では本書は新しいイメージを読者に植え付けてくれるだろう。
大谷刑部は、秀吉の下で順調に出世をかさね、徳川家重臣・榊原康政の娘と結婚して、豊臣側として徳川側と姻戚関係を結んでいる。そして、天正十七年に敦賀城の蜂屋家が断絶したことにともない、越前敦賀五万七千石の大名となる。そこで蜂屋家の家来たちを全員召抱えて領国経営をスタートしている。しかし、そんな順調な大谷刑部を悲劇に陥れたのが、当時「らい病」といわれた不治の病であるハンセン病である。らい病の発症は、潜行性であり、感染力は弱いが人に移る可能性がある病であった。
関ヶ原の戦いの直前まで、石田三成の挙兵に反対し続けているが、最終的に一緒に挙兵に立ち上がった理由として、徳川家康と四つに組んで一勝負したいという夢とらい病による先がないというあきらめが交じり合った複合的な要素があったと思う。
加藤清正細川忠興黒田長政宇喜多秀家島津義弘佐竹義重滝川一益など、戦国時代を異なった視点から見るために戦国武将の個人史を読んできたが、読めば読むほど、戦国時代を重層的に理解することができ、非常に楽しい。本書も、またオススメの一冊である。

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