宇喜多秀家 – 津本 陽 (書評・レビュー・感想)

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書評・レビュー・感想

豊臣政権下の五大老の一人であった宇喜多秀家の一代記であるが、前半部分は、父親である宇喜多直家の話である。中盤は、豊臣秀吉の天下取りまでの流れに多くのページが割かれているため秀家自身はあまり登場しない。秀家が登場しはじめるのは、後半部分に入ってからである。
父親である宇喜多直家は、放浪の人生からスタートしている。その後、備前守護代の浦上氏に仕え、家来数人の状態から死ぬ直前には2万人を指揮するまでの身代となっている。下克上の世の中でこのように栄達していくためにはさまざまな謀略のかぎりを尽くしているため、本書の中でも裏切りや策謀がたくさん登場する。
宇喜多氏としては、直家が悪性の腫瘍のために岡山城で死去した時期から大きな転換点を迎える。当時、宇喜多秀家(幼名:八郎)は10歳とまだまだ幼少だったため、宇喜多家は毛利、織田と揺れ動いていた中で、織田家旗下の秀吉に取り入ることになる。
それが宇喜多家の運命を好転させ、その後、宇喜多秀家は秀吉の養子となり、15歳で従四位下・左近衛権少将に任じられることになる。所領は当時、備前、美作、播磨二群の約57万石であり、1万5000人を指揮する立場になる。そして、秀吉の養女であり、前田利家の娘であった豪姫を妻に迎え、豊臣家との絆を深くする。
運命を大きく変えたのが秀吉死後の関ヶ原の戦いである。秀家は西軍の副大将として、関ヶ原に1万7000の軍勢で出陣し、小早川秀秋の裏切りにより壊滅、敗走することになる。敗走先は、薩摩・島津であった。しかしながら、薩摩での隠棲は許されず、伊豆八丈島へ流されることになる。当時、秀家は34歳。妻の豪姫は一緒についていくことが許されず、主従13名で流されることになり、その後約50年、八丈島で暮らし、84歳で死去している。
秀家と共に八丈島へ流された長男(秀高)と次男(秀継)の子孫が八丈島で血脈を伝え、現在まで宇喜多氏は続いている。ちなみに、宇喜多氏は、本来は浮田氏と書くが、嫡流のみは、宇喜多を名乗っていたとのことである。

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