加藤清正〈下〉 – 海音寺 潮五郎 (書評・レビュー・感想)

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書評・レビュー・感想

加藤清正の一代記の下巻である。
本書では、朝鮮での鬼上官と言われるほどの活躍や秀吉の死から、清正本人の死までが描かれている。加藤清正は、石田三成や小西行長と不仲であったことは有名であるが、そのもっとも深い原因となったのが、文禄・慶長の役での朝鮮出兵である。
本書では、小西行長が明側の講和担当者である沈惟敬とが共謀し、明、日本の双方をだましながら停戦へ停戦へもっていこうとする流れがドロドロと描かれているが、そういう事実があったことは知っていたが、この明側の沈惟敬という人物がどのような人物であるかよく知らなかった。この沈惟敬は、もともと武将でも高官でもなんでもなく、親戚のあとおしでたまたま日本との講和担当になったというなんとも日本側からすると交渉するに値しない人物であったようだ。
Wikipedia – 沈惟敬

沈惟敬(しん いけい、中国名:チェンウェイチン、生年不詳 – 1597年)は中国明代の武将。文禄の役に明の遊撃として派遣され、小西行長や宗義智らとともに和議交渉をリードしたが欺瞞外交により各国の混乱を大きくした。明使として日本に来朝して秀吉に面会もしている。欺瞞外交が露呈して慶長の役の再出兵を招き、明へ帰国後北京にて処刑された。

この朝鮮出兵は、秀吉の死によって、停戦&帰国ということになるが、清正にとっては、その後の領国経営へ与えた影響はかなり大きかった。清正は、朝鮮の石工など他の大名が連れて帰らない技術者も肥前の国につれて帰り、領国経営に活かしている。
帰国後は、徳川家康から豊臣家を守るための活動がメインとなり、この頃からいままで経験しなかった類の忍耐、我慢をすることになっている。そういった経験や領国経営などの日々自分がかかえる問題を解決するために、江戸時代にはいり、多いにはやったが、当時はほとんど誰にも知られていなかった「儒教」を学んでいる。これについても知らなかったが、かなりまじめで誠実な人物であっただろうと思わされた。
歴史にIFはないが、清正がその後も生き延びて、徳川家康よりも長生きしていたら豊臣家のその後の運命も変わったかもしれないなあとつくづく感じた。

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