こころ 夏目漱石

【この記事の所要時間 : 約 4 分

こゝろ (角川文庫)
夏目 漱石
角川書店

ある人にすすめられて夏目漱石の「こころ」読了。
よく考えれば、不思議な本である。
ある学生が先生と呼ぶ無職の中年おやじの遺書がメインなのだから。
ある無職の中年おやじを先生と呼び、尊敬しながら、
突然の別れがくる若者を主人公にしたストーリーだと考えれば、
ぱっと佐藤正午の「個人教授」が頭に浮かんだ。
こころでは主人公は学生(東京帝国大学の)だったが、個人教授では新聞記者を休職中の20代の若者だったはず。
そしてこころで先生と呼ばれるのが無職のランティエなら、個人教授では、アル中の中年のヒモ(こちらは先生ではなく教授と呼ばれていたが)。
どちらも不思議な本であるが、
若者が成長していく過程を描くストーリーであり、世間的に認められているとは言いがたいオジサンに師事し、師との別れを通じて人間的成熟を遂げなさいというメッセージでもあると思う。

「教授みたいな優しい目をした人間はひとりもいない」すると、ホテルの入口の照明から暗闇のほうへ一歩、退いて、教授は鼻を鳴らした。ジャケットのポケットから煙草とライターを取り出して点ける。片手をズボンのポケットに突っ込み、片手に持った煙草の火を時折ゆらしながら、教授は最後の短い講義にとりかかった。

私の眼は老人の眼だ。人に、特に若い女性は私の眼のなかに優しさを読みとる。私はその点をじゅうぶん心得ている。あるいはそれを利用している。が、私はけっして優しい人間ではない。言ってみれば、ただの放蕩者である。私は何者にも服従しない。何者の指図にも従わない。しかし四十数年かかって手に入れたものは何一つ無く、一円の財産も築けなかった。優しさを求める女性たちの間を渡り歩き、与えられた金を博打で増やし、そして失う。その繰り返しだ。おとついもきのうも余った金があれば、必ず酔っていたし、あしたもあさってもきっと酔っているだろう。私に向かって飲むなとは誰もいえないし、誰からも言われたことはない。私に向かってこう生きろとは誰もいわないし、誰も言おうとしない。女たちは私の眼を慕って歩み寄り、そして、ある日、無言で背中を向ける。それが私の習慣となった生活である。私は立ち去る者の背中を老人の眼で恬淡と眺めるしかない。なぜなら、あらゆる指図から逃れ、また指図を放棄するということは、人と人との争いの場から降りるという意味に他ならぬからである。私はひとりぼっちの自由と引き替えに老人の眼を手に入れた。

しかし、むろん君は違う。君の眼はまだ生きている。年配の女性に人気があるのが何よりの証拠だ。彼女たちは自分が失ってしまったものを君の眼のなかにみる。そして引き寄せられるのだ。何も迷うことはない。君が属する世界に戻り、精力的に働くべきである。働いて、将来のために財産を築き賜え。泣いている場合ではない。私は別れ際に強い。というよりもむしろ、人が私のもとを去っていくことに関して感覚が、麻痺している。だから悲しみは覚えない。まだ若い眼の人間は、自分の眼が生きていると気づいた人間は、いずれ、私のそばをそしてこの町を離れていく。そういう仕掛けなのだ。泣いてはいけない。きみに一つだけ忠告しておこう。考えるな。君の手が届かないところまで昇ろうなどと考えるな。女は不可解である。他人は不可解である。不可解な人間に向かって弱音を吐いたところで始まらない。君が悩もうと、迷おうと、気弱く感じようと勝手だが、自分以外の人間に解き方を尋ねるな。大学出のプライドなど捨てて、単純に不可解な存在を認めることだ。手の届かない場所を知ることだ。決して、二度と、他人に頼るな。私を、私以外の誰をも、この先教授と呼ぶな。・・・・

以上をもって別れの挨拶に代える。

繰り返すが泣いてはいけない。泣いてはいけない。

顎をあげたまえ。

よろしい。

それでいい。

またいつか会おう。

そういって教授は僕の背中を一突きした。弾みで二三歩よろけ、眼の前の自動扉が開く。振り返ると、暗闇の向こうから教授はこちらをじっと見守っていた。僕はためらわずに中へ歩いた。扉が閉まる前に、教授がくるりと背中を向けて歩き去るのが見えた。

個人教授の中の別れの部分である。
こういうことなのかなあ〜とボンヤリと思った。

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