源朝臣徳川次郎三郎家康 とは?

【この記事の所要時間 : 約 7 分

今日、2月13日は、「苗字制定記念日」である。なぜ今日かというと、1875年(明治8年)2月13日、明治政府が「平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい)」という太政官布告をだし、すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けたからである。
日本における苗字の制度は、明治政府によって大きく変わった。
・平民苗字許容令(1870年)
・壬申戸籍編纂(1872年)
・平民苗字必称義務令(1875年)
明治以前は、氏(ウヂ)、姓(カバネ)と苗字(名字)は別々のものであったが、上記の3つの法令により「氏(ウジ)=姓(カバネ)=苗字=名字」が一元化されることになり、全国民が新しい氏姓制度に統一された。また、現在の名にあたる諱(イミナ)と通称を併称することもこの頃に公式に廃止され、すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなっている。
現在の人には氏名つまり「氏」と「名」しかないが、昔の人は違った。
徳川家康は、正式には 源朝臣徳川次郎三郎家康 という。
「源」が氏(ウジ)で、「朝臣」が姓(カバネ)で、「徳川」が苗字(名字)で、「次郎三郎」が通称で、「家康」が諱(イミナ)である。
武田信玄は、正式には 源朝臣武田太郎晴信 という。
「源」が氏(ウジ)で、「朝臣」が姓(カバネ)で、「武田」が苗字(名字)で、「太郎」が通称で、「晴信」が諱(イミナ)である。「信玄」は出家後に名乗った法諱である。
Wikipedia – 氏 とは、

氏の呼称は自己の属する血縁集団に基づいて名乗るものであり、婚姻によって本来所属していた家族集団とは違う氏に属する家族集団に移ったとしても氏を変えることはなかった。平(北条)政子が源頼朝の正室になっても「源政子」と名乗らなかったのはこうした考え方による。
平安時代の貴族や武士では、血縁集団を区別するための氏(ウヂ)とは別に、家族集団を区別するために家名ないし苗字を名乗るようになり、それが一般的に通用するようになる。例えば源氏の中のある家系は足利という苗字を称し、別の家系は新田の苗字を称した。つまり足利も新田も、血縁集団としては同じ源姓の源氏だが、家族集団としては足利家と新田家と別個に分かれた。時がたてば、足利も新田も家族的規模からより大きな氏族的規模となり、そこからさらにまた家族集団が新しい苗字で別れていった。

血縁集団に基づいて名乗るものであり、氏と名字の違いは、以下のようになっている。

姓(氏)と名字(苗字)との違いは、姓=氏が天皇(朝廷)から賜ったものであるのに対し、名字は自らが名乗ったものであるということである。例えば、足利尊氏の場合、姓(氏)の「源」を使った場合は「源尊氏」であるのに対し、名字(苗字)の「足利」を使った場合は「足利尊氏」である。

次に、姓(カバネ)であるが・・・
Wikipedia – 姓(カバネ) とは、

姓(カバネ)とは、古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である
職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)などがある。地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などがある。その他の姓(カバネ)としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがある。
姓(カバネ)の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓(カバネ)が与えられた。
姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化した。
代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられた。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの氏族の姓(カバネ)が朝臣(あそん)になってしまい、八色の姓も甚だ形式的なものに変質してしまう。

奈良時代以降、藤原朝臣や菅原朝臣、源朝臣、平朝臣など朝臣だらけになってしまったため、公式文書以外では姓(カバネ)は使われなくなったため、江戸時代などでは旗本でも姓(カバネ)が不明というものもでてきている。
Wikipedia – 諱(イミナ) とは・・・

諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞であるが、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、人の本名(名)のことを指すようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。
中国の伝統を取り入れた名前の習慣が定着すると、中国と同様に目上の者を実名で呼ぶのを避ける習慣にのっとり、実名のことを漢文表記するときは諱と呼んだ。これは中国と同様に実名と霊的人格が結びついているという宗教的思想に基く。そのため、武士は主従関係を取り結ぶときに主君と見定めた人物に自分の名を書いた名簿(みょうぶ)を提出するしきたりがあり、また、親子関係、夫婦関係以外の社会的主従関係に乏しかった女性では、公的に活躍した人物ですら、後世実名が不明となる場合が多かった。清少納言や紫式部、菅原孝標女の実名が不明なのはこのためである。

この目上の者を実名で呼ぶのを避ける習慣は、現代にも残っている。目下の者を名(太郎とか花子)でよぶことはあっても、目上の者(親や先生、上司など)を名で呼ぶことは現代でも無礼となっている。
Wikipedia – 通称 とは

中国や日本などでは、人間の実名にあたる諱をもって自他を呼称する事を避ける避諱の風習があった。よって、天皇・皇族・公卿は尊称又は官職をもって呼称した。取り分け将軍家・大名以下の武士においては官位が無い場合は仮名(通称)をもって呼称した。
日本では諱を口に出して呼ぶことは特に避けられ、貴人を居住する邸宅の所在地名や官職名などに基づいてつけられた通称を使って呼ぶことが通例だった。また、無位無官のものについては太郎、次郎など仮名をもって日常的な通名として使用していた。平安時代中頃以降には武士などの多くの人々も、諱とは別に通称を持ち、普段は通称で呼ばれるようになるが、これを漢文表記する場合は中国の例になぞらえて名を諱(いみな)、通称を字(あざな)と呼ぶ。

まあ現代風にいえば、たっくんとかさっちゃんとかそういう感じに近いのかもしれないとも思うが、たぶん全然違うと思う。
木村拓也をこういう昔の名前っぽくすると・・・
源朝臣木村太郎拓也とかになるのかもしれない。(笑)
ちなみに、源は、皇族が臣籍降下した際に朝廷からもらう氏の一つであるので、そうでない人は基本的には名乗れないが、徳川家康のように、ごまかし?て源を名乗っている人もたくさんいる。

日本の名字
日本の名字

posted with amazlet at 15.11.19
森岡浩
エイ出版社
売り上げランキング: 84,263
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です