なぜ勉強させるのか? – 諏訪 哲二 (書評・レビュー・感想)

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書評・レビュー・感想

著者は、教師と生徒は、「知」の売り手と買い手という商取引で考えるべきではないといい、そう考えることによって、教育と学校が不全を起こしていると説く。
学校というのは、「知識を学ぶ」のではなく、「人間的に成長する」ことを勉強の目的に置くべきであると説明している。
教育というのが教師と生徒の「知」を通した等価交換でないのは、以下の文章からわかる。これは現代における経済理論とは別の次元の話である。

勉強の目的が納得されるのは、学習が一定程度修了してからである。

つまり、商品のように、買う前に効果を確かめたり、比較したりするということができないということである。そして、それは、「知」へは単独では向かえないからだともいえる。子どもは1人で学びはじめれない。

子どもにとっては、提示される「知」や、ルールや技術に巻き込まれることによって、「学ぶ主体」にむりやり構成されていく過程であろう。勉強は、「個」がそこにいて知識を学ぶ、知識を身に付けるといったお上品なプロセスではなく、「自分」が外部の力によって「知」的に構成されていくプロセスなのであろう。まるごと「知」の世界へ投げ込まれるのである。

というような話がずらずらと本書にはかかれている。
が、「なぜ勉強させるのか?」の結論はエピローグに簡潔にまとめられていた。
まさに「自分らしく」「ありのままに」生きたいという人に読んでもらいたい。

勉強をすれば、元の「ありのまま」の自分から離れてゆきます。それがひとである私たちの宿命です。ひとがみな昔を懐かしむのは、個人に成り切る前の「ありのまま」の自分に還りたいという衝動を、どこかに持っているからなのかもしれません。
私たちは「自由に生きたい」とか「主体的に生きたい」とか考えますが、勉強する前の、言葉や道徳を覚える前の「ありのまま」に戻ることはできないし、ましてや、「ありのまま」で生きることはできません。
きっとひとには「ありのまま」に戻りたい、「ありのまま」で生きたいという根源的な衝動があり続けるのでしょうが、「ありのまま」と自由に生きることや、「ありのまま」と主体的に生きることは矛盾します。
もし、私たち一人一人の独自性である「ありのまま」を温存したいと思うなら、逆に、その「ありのまま」を一度否定して、社会や文化にあわせた「ありのままでない」自己を形成しなければなりません。
それが勉強することです。
「ありのまま」では社会的に通用しないことは、言うまでもありません。
私たちが大事にしたい自分の「ありのまま」は、「ありのままでない」自己を表に出して社会的に生きることによって初めて、内面に確保することが可能になるのです。この二重性は、近代人の宿命です。近代人は誰でも二重性を持って生きています。2つの「私」を区別して生きているのが近代人の特徴であり、インチキでもごまかしでもありません。
だから、勉強するということは「ありのまま」の自分が己のままで成長、発展していくことではありません。「ありのまま」の自分を一度否定して、社会に期待されている「あるべき」自分(近代的個人)に変身しようとする冒険なのです。

「プロ教師の会」代表だけあって含蓄がありますね。
読み応えあり!

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