史伝 鍋島直茂―「葉隠」の名将 – 中西 豪 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 4 分

竜造寺家から鍋島家への佐賀藩主交代は、“お家乗っ取り”か“禅譲”か?「葉隠」の名将・鍋島直茂と主君・竜造寺隆信との蜜月関係は、直茂を頼りにした竜造寺側の意向が強く、また直茂も期待に応える働きで、家臣団中での発言権も強まった。とはいえ、分家も多数存在する竜造寺家から、何故一家臣の鍋島家へ家督相続が許されたのか?秀吉、家康ら中央政権の九州支配への思惑も絡まった、佐賀大名交代の舞台裏に迫る。

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書評・レビュー・感想

ちょっと佐賀に行くのでその前に佐賀について知っておきたいと思い、読んでみた。佐賀藩といえば、ちょっとマイナーなイメージで、鍋島家についてもあまりよく知らなかったが、本書でかなり理解が進んだ!戦国時代の九州地方についてはいくつかの書物を読んだが、鍋島に関する記述が少なく、特に印象にも残っていなかったが、もともとは、竜造寺家の家臣だったとのこと。家臣といっても、藩主の竜造寺隆信と鍋島直茂は、従兄弟でかつ義兄弟というかなり近しい関係である。

竜造寺家から鍋島家への権力移譲については謎な部分が多いらしいが、ある程度、著者が考えているものに近いんだと感じた。結局は、戦国時代や幕末といった時代は、名家だとか格式だとかよりも実際の力、能力がある人が上に立つ時代だったんだと思う。そして、当時のほかの状況を見ると、竜造寺家から鍋島家への権力移譲はかなり穏便に進んでいるし、鍋島直茂が何度も固辞しているが、竜造寺一門等から押されて・・・という流れになっている。決して謀反だとか乗っ取りとかそういう雰囲気は感じなかった。実際に島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、竜造寺隆信が敗死した後、鍋島直茂がいなければ、竜造寺家は消滅していたと思われる。鍋島直茂としても竜造寺家家臣より鍋島家として独立した方が楽だったのに、竜造寺家の執権(代行者)としてサポートを続けている。このあたりは他の家とは大きく違う。

竜造寺家も、もともとは少弐家を下剋上したという流れもあり、世の趨勢と考えていた節がある。竜造寺一門が多少の不満がありながらも鍋島直茂をトップへ引き上げているのは、時代を見極めた結果といえるかもしれない。実際、豊臣秀吉にしても、徳川家康にしても形だけで能力がない竜造寺政家よりも鍋島直茂が肥前一国を治めている方がいろいろとメリットがあったのだと思う。

竜造寺家は、1587年、豊臣秀吉の九州平定により、肥前国7郡32万石を安堵された。当初は、1591年に、鍋島直茂を養子とし、さらに自分の息子(高房)を直茂の養子として、前社長である竜造寺隆信の番頭として長年支えてきた鍋島直茂を次期社長が成長するまでの臨時的な社長という形にしていたが、朝鮮出兵においても鍋島直茂が竜造寺家臣団を率い、加藤清正を主将とする日本軍二番隊の武将として参加したり、関ヶ原の戦いに参加したりするなど時代の転換点において、竜造寺政家・高房親子の存在感は薄く、幕府も鍋島直茂・勝茂父子を佐賀藩のトップと認める姿勢をとり続け、さらには、役員クラスである竜造寺隆信の弟・龍造寺信周や龍造寺長信らも鍋島親子を積極的に支持していることにより、臨時社長が長期政権となっていた。そして、決定的な事件が起こる。1607年に竜造寺高房が江戸で妻を刺殺し自身も自殺未遂を起こし、これが元で死去、同年に竜造寺政家も後を追うように死去したため、臨時的な社長が実質的な社長になり、竜造寺本家が途絶えたことに伴い、鍋島家が肥前一国を治める形に落ち着いたのだと思う。鍋島直茂は、自らは藩主の座に就くことはなく初代藩主は息子の鍋島勝茂としていることにも叩き上げである鍋島直茂の配慮が伺え、流石と思わされた。

そして竜造寺本家以外の竜造寺一門は、名前は変えているが、江戸時代も佐賀藩の家老(役員クラス)として残っている。

鍋島直茂についてあまり知らなかったが、戦国時代を生き抜いた知勇ともにある武将だったことがわかった。

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