奄美、もっと知りたい―ガイドブックが書かない奄美の懐 – 神谷 裕司 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 7 分

ヤポネシア・奄美。クロウサギと珊瑚礁の海だけが奄美ではない。沖縄とも一線を画す。その歴史、民俗、自然の深さと広さは、さながら独立国家の観を呈する。朝日新聞記者が歩いた心揺さぶるシマジマの記録。

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書評・レビュー・感想

副題にある「ガイドブックが書かない奄美」にふさわしい内容だった。
奄美大島に3年間赴任した朝日新聞記者が奄美大島に対して愛情をもって書いた本である。

宗教的なノロとユタの関係は、初めて知った部分も多かったが、現在のノロは消えゆく存在で、根強いのがユタということに興味がわいた。ユタとは、奄美、沖縄にいる独特のシャーマンであり、大部分が女性とのこと。今でも奄美の人は、ユタに病気や縁談、新築、就職などの相談事とよくするらしく、ユタが地域に根ざしたものになっている証拠でもある。ノロとは、政治的色彩が強い女性神職であり、琉球王国支配下では、琉球政府からノロが任命されていたようである。この政治性が衰退の理由でもあり、薩摩藩支配後はノロはどんどん衰退し、現在ではいくつかの集落に残るのみとのこと。

奄美の歴史では、薩摩と琉球との関係がメインとなる。黒糖地獄、流罪人の島、島差別、米軍政、復帰運動もありながら現在へとつながっていく。区分としては、奄美の古代が「奄美世(アマンユ)」、8~15世紀までが「按司世(アジヨ)」、15世紀からの琉球支配時が「那覇世(ナハンユ)」、17世紀初頭からの薩摩藩支配時が「大和世(ヤマトユ)」と言われている。奄美世と按司世の資料はほとんどなくあまり良くわかっていないらしい。歴史を見ると薩摩藩支配時代から始まった黒糖栽培が奄美の運命を大きく変えることになる。黒糖地獄とも呼ばれ、奄美は薩摩藩の植民地としてひどい収奪にあい、この時期の島民への圧政には「砂糖を指先につけてなめても鞭打たれた」という話もあるくらいである。薩摩藩の奄美支配は徹底しており、貨幣禁止、往来禁止、衣服は琉球風を強制、姓を許された島の支配層も一字姓に限定(幸、文、龍、里、芝、時など)されていた。また奄美には、独特の階層である「家人(ヤンチュ)」という人々がいた。彼らは、年貢が払えずに身売りした債務奴隷で、幕末には奄美の人口の三分の一が「家人(ヤンチュ)」だったと言われている。また薩摩藩は奄美を流罪人の流刑地にしており、西郷隆盛の例が有名である。江戸幕府が八丈島などを流罪人の島にしたのと似ている。

島差別については、古老は「県は奄美を差別し、奄美は十島を差別した。税と兵隊は確実に取られたが、港も道路も未整備だった。学校は自分たちで建てた」と述べている。

奄美の文化では、島唄が気になった。島唄の最大の特徴は裏声の多用だというが、聞いたことがないのでわからないが、著者いわく、なんとも説明しがたい魅力があるとのこと。奄美に行ったらぜひ聞いてみたい。

奄美を語る際に避けて通れない本土人として、著者は、島尾敏雄と田中一村をあげている。両者とも奄美大島の中心部である名瀬市に20年ほど住み、外部の視点で島を見続けた。島尾敏雄は、文学という形で、田中一村は、絵画という形で。島尾敏雄は、妻が奄美群島の1つである加計呂麻島出身であったことが移住の要因の1つであるが、戦時に海軍特攻隊の隊長として加計呂麻島へ訪れたことも大きな要因である。島尾敏雄といえば、思いやり深かった妻が夫の情事のために神経に異常を来たしていく壮絶な物語りの「死の棘」などが有名である。田中一村は、東京美術学校出身であるが画壇と対立して接触を断ってから奄美大島へ渡り、大島紬の染色工をしながら生涯独身で絵画一筋で暮らした。死後に脚光を浴び、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。ぜひ現地で見てみたい。

島尾敏雄は、今年生誕100年を迎え、島尾敏雄と妻・島尾ミホの世界に触発された女優の満島ひかりが、「文学界」(文芸春秋)6月号に詩を掲載したりしている。満島ひかりは鹿児島の奄美の島を舞台にした7月公開の映画「海辺の生と死」で、島尾ミホをモデルにした役を演じている。満島ひかりは沖縄出身であるが、遠いルーツは奄美にあるとのこと。原作の「海辺の生と死」は、島尾ミホの著書で、父母との思い出と特攻隊長として島に駐屯した夫・島尾敏雄との出会いなどが綴られ、第十五回田村俊子賞受賞作となっている。

奄美の政治では、ヤストク(保徳戦争)が有名である。旧衆議院奄美群島区(定数一)における自民党の保岡興治氏と自由連合の徳田虎雄氏の支持者らによる激しい政争である。奄美大島の島民の中には、政治は、大島紬、サトウキビ、公共事業に続く奄美の第四次産業という人もいる。現金が飛び交い、「選挙は金をまくのが当然、もうらのも当たり前」という奄美独特の奇習も生んだ。

本書は、1997年発売であるので、その後のヤストクがどうなったかは書かれていないが、その後、保岡興治氏は2度、法務大臣になり、衆議院13期の現役代議士である。徳田虎雄氏は、2002年頃に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し政界から引退したが、その後も病床から徳洲会に指示を出し続けていると言われている。

奄美の経済では、大島紬とサトウキビが産業として大きい。大島紬は、奄美大島の古代の泥染め技法とインド発祥の織物がルーツとされるが、文献上は1720年の記録に初めて登場。明治後期から生産性が向上、昭和初期に栄えた。戦争で壊滅的打撃を受けたが、戦後、盛り返し、奄美産は1972年に約28万4300反でピークを迎え、その後は後継者難により年々生産量が減っている。サトウキビも同様に後継者難により年々生産量が減っている。

奄美の食では、黒糖焼酎や鶏飯、山羊汁が有名であるが、本書を読んで知らなかった黒糖焼酎の世界があった。なんと、黒糖焼酎の原料となる黒糖の9割以上が沖縄からの移入で、奄美産はわずか数%であり、もう1つの原料である米もほとんどのが本土からの移入品となっているとのことで、黒糖焼酎が奄美大島の特産品といっても、法的保護のもとで砂糖から焼酎をつくることができる地域が、ただ奄美であるというだけになっているのが現状だということである。少し驚いた。

「ガイドブックが書かない奄美」にふさわしい内容で、非常に楽しく読めた。

著者は最後に以下のように書いている。

この本は、私が歩いた、見た、聞いた、読んだ、そして書いた奄美について、確認していく作業であったとともに、そのことによって自己を確認する「過程」でもありました。ヤマトンチュである私はいったい何者なのか、「記者」という仕事とはいったい何なのか、もちろん、その作業は端緒についたばかりで、何の答えも出ていません。これからも考え続けていくことばかりです。また、この本では、奄美の将来展望などについてはほとんど触れませんでした。奄美を取材してまだ三年にしかならない人間が簡単に言えることではありません。今後の宿題として、これからも奄美とかかわり合って、考えいくことができれば、と思っています。そうしてそれは、奄美だけでなく「ヤポネシア」全体の将来構想に関することなのだと思います。

奄美旅行に行く前に必須の本である。
良書!

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