「北大路魯山人展」に行きたい!

【この記事の所要時間 : 約 3 分

「北大路魯山人展」が三越本店で行われるみたい。
時間があればぜひ行きたい。
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北大路魯山人展 – 日本橋三越本店

北大路魯山人(1883〜1959)は、その類い稀なる感性と独特の創造性により、幅広い分野において、その非凡な才能を発揮させた人物です。没後50年が経とうとする今もなお、その作品は多くの人々の心を惹きつけます。
京都の上賀茂に生まれた魯山人は書家を志して上京し、書や篆刻で評判を得ました。30歳ころから美食に目覚め、古美術の名品に触れ、芸術に関する見識を広げました。1925年、赤坂にオープンした「星岡茶寮」は魯山人の感性のすべてがあらわれた会員制の料亭です。料理や食器はもちろん、部屋の設い、従業員の服装に至るまでを演出し、盛況を極めました。星岡茶寮で用いる食器は、北鎌倉の星岡窯で制作されました。それらは料理をひきたて、かつ使い勝手のよい器ばかりでした。
魯山人の多彩なる個性はここに発揮されたと言えましょう。−「用の美」。本展では、魯山人の遺した数ある名言の中からこの言葉をテーマに、魯山人の感性を伝え、感じられる展示をいたします。個性あふれる魯山人の作品に挑んだ、料理・和菓子・花の興宴をお楽しみください。

Wikipedia : 北大路魯山人

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん、男性、1883年3月23日 – 1959年12月21日)は、芸術家。本名は房次郎。
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた。
京都府京都市上賀茂の上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となる。10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業し、京都烏丸二条の千坂和薬屋(現:千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出る。25歳の時、中国北部を旅して書や篆刻を習う。
1921年に長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで魯山人は、福田 大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる紫田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。
1922年の時に、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで、食器と美食に対する見識を深めていった。そして1929年に会員制食堂「美食倶楽部」を発足[1]、自ら厨房に立ち料理を振舞うなどしながら、そこで使用する食器や料理を自ら創作していた[2]。
戦後は星ヶ岡茶寮が人手に渡るなど不遇な生活を過ごすが、1954年にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される。翌1955年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも、これを辞退。1959年に肝吸虫[3]、つまりいわゆる肝臓ジストマとも呼ばれた寄生虫による肝硬変のため死去。

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