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逃げる百姓、追う大名
江戸時代初期、よりよい生活を求めて、生まれた村を離れた農民たちがいた。
大名たちは大事な年貢を生み出す耕作者をより多く手元に置こうと、他領から来た者は優遇し、去っていった者は他領主と交渉して取り戻すべく躍起になった。
藩主と隠居した先代とが藩内で農民を取り合うことさえあった。
「村に縛りつけられた農民」という旧来のイメージを覆す彼ら「走り者」を通し、大名がどのように藩を切り盛りしたかみてみよう。
書評・レビュー・感想
江戸時代の農民のイメージはどういうものだろうか?
以前、民俗学者の宮本常一氏の忘れられた日本人を読んで、衝撃をうけ、戦前から戦後にかけての村落のイメージを大きく変えるきっかけになったが、本書を読んだ後も同様に感じた。
「村に縛りつけられた農民」というイメージはイメージであって、現実ではなかった可能性が高い。
本書と「忘れられた日本人」に共通する村落は、「かなり」流動的である。
戦国時代が終わり、安定化した江戸時代でも村落はかなり流動的だったのだ。
江戸時代の初めころ、農民は、何の許可も得ずに自分の住む土地を離れ、よりよい生活や地位を求めて、他の大名や家臣の領地の村や町、鉱山などへ移り住んだ。
それを「走り」と呼んでいる(欠落、逐電、退転ともいう)。
そしてそれは、「走り」を取り締まる法令を出していない大名はいないというくらい、全国各地で頻繁にみられた現象だった。
江戸時代の村というものはどういうものだったかというと・・・
江戸期の平均的な村は、村高500石、軒数40~50軒といわれるが、当然ながら平野、山間部などの自然条件によって異なる。太閤検地をはじめ大小規模の検地によって、村の範囲が確定され、検地帳に登録された者たちが田畑の持ち主となり、村共同体の一員として村々に住んだ。彼らは農耕を中心としながらさまざまな稼ぎ仕事で生計を補う小農がもっとも多く、一方に草分百姓、由緒百姓などと呼ばれる有力な農民が存在した。
本書では、具体的な資料をもとに、どの村の誰々が、いつどの村へ「走った」のか、そしてそれについて大名や家臣たちがどういう行動をしたのかなどかなり細かく記述されている。
当時、「走り」というのが、大名間または、家臣間の間で政治問題化していたことが伺える。
江戸時代の農村、村落、農民のイメージを少し変わった。
特に土地を持っていない農民は、より「走り」を行っているが、名主などの土地を持っている層はそうでもない。名主といえば、小作人を奴隷のようにこき使うイメージがあるが、小作人はよりよい生活を求めて名主間を移動していたようだ。戦国時代に武士が大名間を渡り歩いたように、江戸期に農民(多くは小作人)は大名間、村間、名主間を渡り歩いていたのだろう。