わずか五千石、小さな大大名の遣り繰り算段 – 山下 昌也 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 2 分

徳川の治世の時、家光の代に「大名は石高1万石以上とする」と決められた。そんな中にあって、下野の喜連川藩はなんと五千石で大名とされ、遇されていた。なぜなのか?そもそも喜連川家は足利将軍の係累であり、古河公方の流れをくむ名血であった。大名でありながら、徳川に対しては客分の処遇を受けていたのである。さりながら、石高五千石では、藩の経済は逼迫。そのギリギリの台所を喜連川家はどのようにやりくりしていったのか。その知恵は、平成のいまにも十二分に生かすことができるものである。

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書評・レビュー・感想

鎌倉公方(古河公方)、小弓公方だった足利氏の後裔である「喜連川氏」の喜連川藩(きつれがわはん)に関する物語である。

歴史モノでもなかなか焦点が当てられないところだったので、非常に興味深かった。
喜連川氏は、豊臣秀吉によって作られ、徳川家康によって利用された。
もともとは、小田原征伐後に、鎌倉公方家(古河公方家)の遺児・足利氏姫と、小弓公方家の足利国朝に娶わせたことによって喜連川氏ははじまる。名族である足利氏の断絶を秀吉が惜しんだこともあるが、もっとも大きな理由は、足利国朝の姉が秀吉の側室だったことだろう。絶世の美女だったと言われている。

もともとは足利姓だったが、下野国塩谷郡喜連川に所領を与えられたことから喜連川姓を名乗り始める。その後、明治になってから足利姓に戻している。

源氏の血を引く名門・足利家。
江戸時代には、江戸幕府が徳川家の家格を高めるために利用する。
たった五千石だが、大名として処遇されていた。
徳川家に臣従するほかの大名と異なり、徳川家の客分という立場。

そんな喜連川藩も他の小藩と同じく財政難をいかに潜り抜けていったかというストーリー。
入酒法度や本陣・問屋株の売買、家臣からの借金などなど。
小藩に光を当てた良書といえる。

大名とはいえ、たった五千石なので、家老の200石はまだいいとしても、中老で25石、近習15石、徒士・同心7石という貧乏所帯。家老以外は、下級武士くらいの給金しかなかったことがわかる。

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