下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち – 内田 樹 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 2 分


下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

第1章 : 学びからの逃走
第2章 : リスク社会の弱者たち
第3章 : 労働からの逃走
第4章 : 質疑応答
子どもや若者が積極的に「学び」「労働」から逃走し始めた。「知の格闘家」が、リスク社会に生み出される大量の弱者たちを鮮やかに斬る。2005年6月の「トップマネジメント・カフェ」における講演をもとに書籍化。

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書評・レビュー・感想

買い手という立場を構造的に先取りしてしまった不幸が現代の子どもにはあると指摘している。

今の子どもたちと、今から三十年くらい前の子どもたちの間でいちばん大きな違いは何かというと、それは、社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。

何が不幸かといえば、この買い手(消費者)というものと教育というものが相容れないところだと思う。
学びは、教育を消費することでは起動しない。(首都大学東京ではそうしようとしているけど)

教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができない

そのような「教育」を事前にその効能を見極め、受けるか受けないかを決めるというような消費のタームで語ってしまうというか考えてしまわざるをえないという不幸がある。
自分自身も学生時代はそのように思うことがあった。

教育の場にシラバスというジョブ・ディスクリプションを持ち込んだことを僕は教育の自殺行為だと申し上げました。それはこれから学習を始めようとしている学生に、彼がまだ何も学んでいないうちに、学びの行程の最後までを、一望俯瞰できる二次元的な図像として、つまり無時間モデルにおいて与えることだからです。

というような一望俯瞰図を学生時代には教師によく求めた。
しかし、だれもそのようなものを与えてはくれなかった。
ただ、それが内田先生がいうような意味であったかどうかはわからないが、今となってはそれでよかったのだと思う。その時の自分は「時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れない」=無知という状態であったのだから。
私も含めて無時間モデルで物事を考えるクセがある人は、注意が必要だ。
どこかで読んだことがある内田節も多いが、要再読。

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