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年末年始は、実家のある岸和田へ。
時間があったので、散歩がてら岸和田城へ。
伝承によると、建武新政期に楠木正成の一族である和田氏が築いたらしい。当時、あの辺りは「岸」と呼ばれ、和田氏が辺りを支配したことから、「岸和田」といわれるようになったというのを聞いたことがある。
小出家、松平家などをへて、1640年に岡部宣勝が入城し、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩(6万石、のち5万3千石)を統治。
岡部氏は鎌倉時代から駿河国で地頭をしており、戦国時代には今川家に従属。その後、武田家、徳川家と主を変えている。
以前の天守閣は、絵図によると5層あったらしいが、火災により消失し、昭和29年に現在の3層の天守閣が建造された。
ちなみに、「だんじり祭り」は3代目の岡部長泰の時代にはじまったといわれている。
岸和田城のすぐ近くにある岸和田高校は、家老中家の跡地である。中家は、岸和田藩の筆頭家老職を代々勤め、家臣中最高録の1500石が与えられていたと言われている。岸和田藩には家老が2家あり、もう1家が次席家老職を代々勤める久野家である。久野家の跡地も内堀の外にある。
明治維新の際に、二の丸御殿と伏見櫓が取り壊されたので、当時のままのものは、石垣と堀だけになっている。二の丸御殿と伏見櫓があった場所は、公園として再生されている。昔はサルがいたが、久しぶりに行ったらいなくなっていた。
岸和田藩は、108村を支配し、その支配体制として、家臣団以外に、七人庄屋制というものをとっており、その七家は、苗字帯刀が許可されていた。
・熊取谷(現熊取町)中左近
・熊取谷(現熊取町)中(降井)左太夫
・佐野村(現泉佐野市)藤田十郎太夫
・佐野村(現泉佐野市)吉田久左衛門
・岸和田村(現岸和田市)岸六右衛門
・樽井村(現泉南市)脇田右馬太郎
・信達市場村(現泉南市)小川信左衛門→(1789年)→畠中村(現貝塚市)要源太夫
たまには実家もいいもんだ。