東京ファイティングキッズ・リターン – 内田 樹 (書評・レビュー・感想)

【この記事の所要時間 : 約 4 分


東京ファイティングキッズ・リターン東京ファイティングキッズ・リターン

・正しさは誰が判断する?
・第三者、エロス、時間
・自由という神話、成長という物神
・詩と反復
・言葉に対する敬意と慎み深さ
・エクリチュールの魔
・キャリアという自己商品化
・常識と陰謀
・非決定問題について
・ブリコラージュ的知性について
などなど
ともに1950年生まれ、筋金入りの団塊世代で元全共闘、現在文武両道学者&経営者の二人による、無手勝琉ダイアローグ・エッセイが帰ってきた。ニート・フリーター問題も、市場至上主義も、ナショナリズムも、グローバリズムも、まとめて「ぱあん」とお説教。老いや成熟とは無縁、いつまでたっても「転がる石」の生き方を貫く「悪い兄たち」の声に、いまこそ耳を傾けよ。

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書評・レビュー・感想

「知的肺活量とは何か」というテーマで「共同体」について取り扱われていた章が印象に残った。

共同体の最小単位は、家庭です。そこでは父親や母親の価値観が、そのまま共同体の価値観となるわけです。血縁共同体ですね。もう少し、共同体のフレームを広げると、町内会だとか、商店会のような地縁共同体が現れてきます。ここでは、町会長とか、商店会長なんていう人がその共同体の規範を体現しています。さらにこれを拡大すると、学校や文化サークル、あるいは会社といった理念や目的を靭帯とする幻想共同体が現れてきます。人間の成長とは、ある意味で身近な共同体からより大きな共同体へと、段階的に脱皮してゆくことなのかもしれません。

この「身近な共同体からより大きな共同体へと、段階的に脱皮してゆく」それぞれのタイミングというのは人間の成長段階で大きな節目となる。そしてたいていはその節目というのが定型化されている。
しかしながら、その共同体自体に欠陥があったり、定型化されている節目があいまい化することによってその段階を乗り越えられない人が発生し、問題(ニート、フリーター、ワーキングプア etc)になっている。
その問題に対して、それらの人たちをどう救うのか?その人たちには何が足りなかったのか?などと世間では様々な場所で話題となっているが、本書では、それは知識がなかったからでも知性に欠陥があったからでもなくあるフレームワークが失効してから、次のフレームワークを自力で再構築するまでの「酸欠期」をノンブレスで泳ぎ抜くだけの「知的肺活量」がなかったからではないかと指摘している。
この「酸欠期」がいわゆる「失われた10年」などに当たると思う。
そして、この「知的肺活量」を平川克美氏はこう定義している。

自分の価値観といったものを測定して判断してくれる第三者を、どれだけ自分から離れたところに措定できるかということなのだろうと思います。あるいは、そうした第三者の不在に耐えると言ってもよいかもしれません。

だからどうなのだ!といわれればそれまでだが、ある種今まで思いが言葉にならなかったことを言葉にしていただいて少しすっきりしたという思いは読後に残った。
それとは逆な課程を経る方もいるかもしれない。
それを内田樹先生は以下のように述べている。

「言葉が到来したことによって『思い』がそこにあったことを事後的に知る。」

どちらかといえば、こちらの課程を経た人の方がいい分析ではなく、いい解決案を出すのかもしれないとなんとなく思った。
2人の対話はあっちこっちに話題が飛びながらも読者を楽しませてくれる。
東京ファイティングキッズ・リターンは、東京ファイティングキッズの続編であるので、ぜひ、東京ファイティングキッズ・リターン2も期待したい。
ちなみに、本書のカバーを取った表紙に内田樹、平川克美、両氏の若き頃の写真が載っており、東京ファイティングキッズが小学生の頃で、今回は大学生くらいの頃かと思う。
こちらもファンにはうれしいオマケかもしれない。

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